気づけばいつも、音楽が近くにあった
ここのところ、仕事やプライベートでもなにか忙しなくて、少しだけ疲れてしまっていた。そんな時は、無性に音楽にどっぷりと浸りたくなる。好きなアーティストのライブに行くとか、音楽を聞くためにドライブに行くとか、はたまた部屋でじっとスピーカーに耳を傾けるとか、その浸り方は様々だが、何にも邪魔されずにひとり音楽と向き合う時間は、私にとっては大切な時間だ。
思えば、いつも音楽が身近にあった。我が家のリビングの壁にはたくさんのギターがぶら下がっていて、父がいつもそのギターを奏でていたからだ(そろそろ後期高齢者の父は、未だにライブ活動に勤しんでいる)。
父の元、幼少の頃より家で流れていた音楽は、今も私の根底にしっかりと根付いている。60年代から80年代の海外ロックミュージックを聞けば不思議と心は落ち着き、サイケデリックなアニメーション映画の中で何回も繰り返し聞いたビートルズの音楽は、子守唄を聞くときのような安心感を覚える。
自分も音楽をやるようになってからは、色々なジャンルを聞くようになった。今やクラシックからテクノやボカロまで、多種多様なお気に入りがあり、自分でも自分のツボがよくわからない。もう楽器はやめてしまったし、決して知識が豊富なわけではないのだが、自分なりの楽しみ方で、音楽を聞かない日はない。
そういえば、地元のCDショップで初めて買ったカラヤンのアルバムはどこへやったのだろう。その時はまだ中学生で、お小遣いを握りしめて、緊張しながらレジに向かったのだった。最近はもっぱらストリーミングで音楽を聞いていたが、久しぶりに音楽を“見つけに”まちに出向くのもいいかもしれない。
今の気分は?と自分に問いかける。上田へ向かう車の中で、少しアンニュイだったその時の気分にあった音楽をかけた。
静かな集落の、秘密の扉 『古書&レコード 二月猫』
トンネルを抜け、くねくねした細い道を進んだ先の静かな集落に、その小屋はある。三角屋根とちょこんとついた赤いドアが目印だ。静かな山間にポツンとあるその店は、自分だけが知っている秘密の場所のようで、扉を開けるときには独特の高揚感がある。
『古書&レコード 二月猫』に置いてあるのは、60年代から70年代のロックやポップスを中心とした中古レコード。壁にもたくさん掲げられたそのジャケットはどれもその時代を映し出していて、見ているだけでわくわくする。初めてCDを買ったショップを、また思い出した。店主との距離感の近さが、なんだか似ている。
FM軽井沢で音楽番組のパーソナリティも務める店主は、頼もしいエキスパートだ。アーティストや音楽の知識はもちろん、当時何が流行っていたか、とか、どんな風に人々が熱狂していたか、とか、レコードや音楽にまつわる色々なことを教えてくれる。
彼と話をしていると、やっぱり音楽っていいなあ、としみじみ思う。音楽は人の奥底にある熱を増幅して、私たちを大きく動かす。
「音楽って、派生していくものでしょう?」
だから起源を深掘りもできるし、先の時代へと飛んでいくこともできる。そもそも実は、私はCD世代なのだった。レコードとCDの過渡期に生まれた私が、まさかいい大人になってからこうやってレコードショップでレコードを物色するようになると、誰が思っただろうか。流行はめぐるとはよく言うけれど、それはやはり、そこにアーティストたちの魂が込められているからこそなのだろう。どの時代においても、音楽を通じて伝わるものは輝きを失わずに届いていく。
以前の持ち主がどんな風にレコードを聞いていたのだろう?と思いを馳せれば、名も知らぬその人とともに、熱狂を分かち合えるような気さえしてくる。だからこうやって当時のレコードを手にすることは、特別だ。
後から来た常連客の男性が試聴を頼んだ音楽が、店内に流れた。私が生まれる前の時代の、音楽。当時のことを懐かしそうに話す声とともに、その音色は私の内側に響き渡っていった。
カオス、発酵、その先にあるもの 『メロディーグリーン』
1981年、上田の商店街の中ほどで貸しレコード店として始まった『メロディーグリーン』は、様々な形態を経て今に至る。入り口から奥が見えないほど広い店内には、所狭しと商品が並ぶ。レコードやCDのみならず、雑貨、中古衣料、葉巻やタバコ。ここには独自の文化が確立されている。
半日かけて商品を物色する客もいるらしいが、それも納得だ。とにかく圧倒的な量のレコードとCDに、興奮は収まらない。ざっと店内を見渡して、今日はこの辺かな、と当たりをつけて探し始めよう。膨大な商品の中からお気に入りの一枚を見つけた時には、つい、にんまりとしてしまう。
店内のレコードプレーヤーでの試聴は、必要があればやり方も教えてもらえる。レコードを袋から取り出し、ターンテーブルに置き、針を落とす。そのひとつひとつの所作が、音楽に向き合うための儀式のように思えてくる。それは、近くにマニ車が置かれているからか。いや、そうでなくても。するすると全てが流れていきがちなこの時代、じっくりと目の前の音に向き合うことは、忘れていた感覚を再び解放してくれる。
このお店はもう、発酵しちゃってるよ、と笑うオーナーとマニ車を回しながら話せば、不思議と心の奥底から元気が湧き出てくる。発酵すればするほど、そこには旨みが増す。だからこの店は、こんなにも深く、全ての人を包み込むのだ。
それにしても、40年以上の歴史とともに歩んだ店。裏を返せば、ずっと人々に必要とされてきたということだ。
「いつまでもこんなんじゃだめだ、の全く反対、不思議といつも、これでいいんだ、って気持ちなの。自分の道を行かないとね。」
オーナーの哲学は、この店のそこかしこから滲み出ている。音楽と人生は時に濃密に絡み合うが、ここで買った音楽を聞けば、きっとオーナーのことを思い出すだろう。購入したレコードを片手に店を出たら、さっきよりも空が青く見えた。
コーヒーと、音楽と 『ジャズ喫茶 A列車』
店を巡って買ったいくつかのレコードとともに、ふらりと最後にたどり着いたのは『ジャズ喫茶 A列車』。大通りから少し入った細い路地にひっそりとあるジャズ喫茶、というと、素人には近寄り難い雰囲気のように聞こえるかもしれないが、中の様子を覗けばとても開放的で明るい店内だ。
ドアを開ければ、正面に鎮座している大きなスピーカーから発せられる深みのある音が、体全体に響き渡る。カウンターで、いらっしゃいませ、と迎え入れられ、スピーカーの目の前のリスニング席へと腰を下ろす。この席では会話は無用、純粋に音を楽しもう。それにしても圧倒的な音に、ため息が出る。目を瞑れば、すぐそこに奏者を感じるくらい、生々しい。音とは空気の振動なのだということを改めて思い出す。
運ばれてきたコーヒーを飲む。目を閉じる。奏者の息遣いを感じる。どんどんと音と一体になっていく。その繰り返しは、自分を取り戻す作業のようでもある。
ジャズは、楽譜が1枚だけ。それ以外は全てアドリブの音楽だという。それを聞いて、まるで、この世界みたいだな、と思った。決まっていることなんて、実は、わずかばかりのこと。いや、もしかしたらその1枚の楽譜すら、いらないのかもしれない。しかしそれは、好き勝手やっていいということではない。ひとつひとつの音は、調和することでさらに美しく響いていく。
店の開店時間に合わせて、次々に人々がやってくる。スピーカーの前にただ座りじっと静かに音を楽しむ通らしき人もいれば、CDがずらりと並ぶカウンターでは落研だという地元大学生が「芝浜」について語っている。マスターにオーディオやジャズについて教えてもらうのも、やっぱり楽しい。上田のまち。こういう、そこはかとなく漂うこういった文化の薫りが、たまらなく好きだ。
「ジャズ喫茶っていうのは、新しい発見ができる場所、なんですよ。」
ジャズ喫茶育ちのマスターが帰りがけに、話してくれた。新しい発見。もしかしたらそれは、初めて聞く新しい世代の音楽だけでなく、繰り返し聞く古い時代の音楽にも、等しくあるのかもしれない。
音と、余韻と
店を出た後にも、余韻で体中が満たされていた。音楽を手に取ったり、体全体で感じたり、今ここに実際にある存在としての価値は、やはりずしりとしている。と同時に、力強く私を揺さぶる。なんだか無性に、叫び出したい。スキップしたい。人が行き交うまちなかなのでさすがに自粛したけれど、この沸き起こってくる感覚を取り戻せたならば、きっと、もう、大丈夫。
帰り道、今の気分は?と再び自分に問う。プレイリストの中から見つけたアップテンポの音楽を流しながら、車のエンジンをかけた。
取材・撮影・文:櫻井 麻美
『二月猫』
https://nigatsuneko.official.ec/
『メロディーグリーン』
http://ueda-machinaka-shop.com/shop/106/
『ジャズ喫茶A列車』
https://www.a-train-jazz.com/
<著者プロフィール>
櫻井 麻美(Asami Sakurai)
ライター、ヨガ講師、たまにイラストレーター
世界一周したのちに日本各地の農家を渡り歩いた経験から、旅をするように人生を生きることをめざす。2019年に東京から長野に移住。「あそび」と「しごと」をまぜ合わせながら、日々を過ごす。
https://www.instagram.com/tabisuru_keshiki
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