幼き日の、映画館の思い出
商店街を歩きながら思い出していたのは、幼い頃の映画館の記憶だった。
小学生の頃親に連れられて行った、家から近い繁華街の映画館。駅前にあった少し古ぼけた建物にはプラネタリウムが備えられていて、てっぺんがドーム型になっていた。
当時はネット予約なんてない時代。一時間くらい前に到着してチケットを買ったら、上映前に列に並ぶのが常だった。子どもにとっては、少々長い。でもそんなものは、映画を見ればたちまち吹き飛んでしまう。
スクリーンの中にはここに来るまでとは違う世界が広がっていて、ひとたび引き込まれてしまえば、時間の概念などそこにはない。小さな私にとって、大勢が一堂に会してスクリーンに向かう映画館は、宇宙に飛び立つスペースシャトルのような空間だった。
見終わった後に再び外に出ると、さっきと同じ景色のはずが、少し違うように見える。地球に帰ってきた宇宙飛行士も、もしかしたらそんな風に感じるのかもしれない。この不思議な感覚が好きで、それは、今も変わらない。
まちの開発に伴い、思い出の映画館は解体された。もはや周辺も変わり果ててしまい、あんなに足しげく通った場所でも迷ってしまう始末だ。私が通ったその他の古い映画館も、ほとんどがなくなってしまった。その事実に改めて気づいてしまい、だから私は、とぼとぼと道を歩いていたのだった。
昼時の権堂商店街。善光寺にほど近いが、観光客の姿はあまりない。休憩時間のスーツ姿の人々が、リラックスした様子で歩いている。みな、行きつけと思しきそれぞれの飲食店に吸い込まれていくが、私はといえば、彼らとは違う方へ向かっていた。
蕎麦屋の角を曲がると現れる、その先にぽっかりと開いた空間。突き当たりには、懐かしい風貌の映画館が静かにそびえ立っている。温かく迎え入れてくれるようなその佇まいを見るや否や、先ほどまでの寂しい気持ちが、晴れていく。
「ただいま。」足を止め、誰にも聞こえないほどの小さな声で、ぼそりと呟いた。
匂い、色、空気、音、ここにいた人すべて 『長野相生座・ロキシー』
『長野相生座・ロキシー』。その入り口には、緑と白の縦縞模様のテントが伸びている。建物の上部に目を移せば、「相生座」と掲げられたネオン管。ここは、明治25年に始まった、日本最古級の映画館だ。何も言わずとも、歴史が、滲み出ている。
今日は、映画を見よう。そう思い立って突然映画館を訪れることが多い私にとって、予約なしで入れる場所は、大変ありがたい。予約すること全般が、基本的に苦手である。予約したその瞬間に、もうその目的を達成した気持ちになってしまい、行きたくなくなる性分だからだ。
アーケードから映画館に向かうまでの間には、たくさんの映画ポスターが貼ってある。いくつかの気になったポスターをよく見れば、公開はもう少し先。そうか。残念。
インターネットで見たいものを探すと、どうしても情報が偏ってしまう。だからこうやって、積極的にポスターを眺めるのだ。本屋で本棚に並ぶ背表紙をなぞるように、ポスターを“読む”。それだけで、自分の世界が広がっていく気がする。(あの作品は、今度また見に来よう。)
悩んだ挙句、中国を舞台にしたドキュメンタリー作品を見ることにした。普段あまり見ることのない系統だが、予定調和でない映画鑑賞もまた、おもしろい。売り場のブースで作品名を告げると、はいどうぞ、と入場券を手渡される。この紙の質感とかわいらしいデザイン。愛おしい。大切に財布にしまい込み、入り口の少し重たい扉を開ける。
その瞬間、建物の内部にふわりと香る、懐かしい匂いが鼻をくすぐる。これは、どこから発せられているのだろう。きょろきょろしてみるものの、発生源と思しき懐かしいあれこれがありすぎて、特定できない。とにかく胸いっぱいに空気を吸い込み、体全体に行き渡らせる。少し経つと匂いに慣れて感じなくなってしまうので、この作業は手早く行わなければならない。案の定、何呼吸か後には、もう匂いは感じなくなった。この時ばかりは、嗅覚の適応能力を呪う。
映画が始まるまでは、もう少し。それにしても、喉が渇いた。外の暑さで、体はじっとりと湿っている。ロビーで涼みながら、待つことにしよう。
時を経て、残る体温に、身を沈む
映画館には、たくさんの椅子が置いてある。建物の入り口付近。入ってすぐのロビー。そして少し奥の方にある、ひらけた場所。全て、磨き抜かれたヴィンテージチェアだ。どれに座るか迷いながらも好みの椅子を選んで、そこに身を預ける。そうすれば、不思議とこの建物の歴史の一部分になったようで、少しうれしい。
自販機で買った冷たい飲み物を飲んでいたら、再び幼い頃の映画館が心に浮かんできた。でもこの空間が、感傷的な気持ちを少し和らげてくれるようだった。年月は流れたのだから、物事が変化していくことは必然だ。そう、ここだって、出来た時は新しい建物だったのだから。
新しい建物が生まれ、道ができる。100年後には、今見ている真新しい景色が、誰かにとっての郷愁を抱く景色になるかもしれない。それにしても、郷愁とは。何が人に、郷愁をもたらすのだろうか?誰かがそこにいたという、体温。人の温もり。それらが蓄積していくとき、そこは誰かにとって懐かしい場所になるのかもしれない。
そんなことを考えながら、座っていた椅子の座面を撫でた。その表面からは、人の重さがかかった痕跡が感じられる。汗ばんだ体は皮張りのソファに少しひっかかったが、時たま吹く扇風機の風が体を優しく包んだ。健気に右に左に首を回す扇風機。その風が繰り返し、髪を揺らす。張り付いたその髪を払いながら顔を横に向けると、上映予定の作品が紹介された手書きのポスターが目に入った。
そういえば。先ほどスタッフカウンターで見かけた、書きかけのポスター。なるほど、と記憶がつながった。そのカウンターの方からは、楽しそうな話し声が聞こえる。常連客が、映画について話しているようだ。ひとりでふらりと好きな時に来て、映画の話ができる。そんな場所が近所にあるなんて、心底羨ましいものだ。
もう一往復だけ扇風機の風が通り過ぎるのを待ってから、椅子から立ち上がる。スクリーンは全部で3つ。カウンターの左手にある、「ロキシー2」へと向かった。
映画館、私たちになくてはならないもの
整然と並ぶ、しっとりとした生地の椅子に座ってほどなく、上映開始のブザーが鳴った。何を隠そう私が一番好きなのは、この上映前の瞬間なのだ。照明が落ち、スクリーンに映像が映し出される。そして、響く音が腹の底を揺らす。毎回のことながら、やはり興奮してしまう。
偶然見ることになったドキュメンタリー作品は、旅の途上で出会った人たちとの再会をテーマにしたものだった。奇しくも、今の自分にぴったりの内容のように思えた。
“当たり前”があっという間に変わっていく現代。変化していく時代のなかに、それでもずっとあり続けるものとは、何だろうか。映画が進むにつれ、胸の中に、ふわりと掴みどころのない、けれど確かに感じる温かいものが広がっていく。
同時に、大勢の気配を背中に感じていた。今はいないけれど、ここで映画を楽しんできた人たち。その気配と共にスクリーンに向かい映画を見るのは、不思議と、心地良い。
その時ふと、私たちにはやはり、映画館が必要なのだ、と自分の中で答えが出たような感覚になった。大きなスクリーンでしか見えない、光。空間に広がる音響でしか感じられない、ささやき。さらに言えば、今まで過ごした人々の心の機微が、この場所にはある。共に同じ場で、同じ作品を共有するという行為によってのみ生きてくる、目に見えないもの。それは、テレビ画面やタブレットからでは絶対に享受できない。
活動写真の時代から上映を続けてきたこの映画館が、こうやってあり続けているという事実。それが全てを物語っている。どの時代も私達は映画を求め、そしていつだって、映画は、映画館は、私たちと共にあり続けるのだ。
「ありがとうございました。」会場が明るくなり、人々が外へと歩き出した。ひとりずつにかけられる言葉に、みな会釈をして映画館を後にする。映画を見終わった人の後ろ姿は、どこか独特だ。まるで体の周りに、ふわふわした空気をまとっているかのように。その時の私にはそれが、宇宙服のようにも見えた。宇宙から帰還しても、供給され続ける酸素。私もそれを、じっくりと体内に取り込んだ。そして、前を歩く背中を追って、再び商店街へと歩き出した。
取材・撮影・文:櫻井 麻美
『長野相生座・ロキシー』
http://www.naganoaioiza.com/
<著者プロフィール>
櫻井 麻美(Asami Sakurai)
ライター、ヨガ講師、たまにイラストレーター
世界一周したのちに日本各地の農家を渡り歩いた経験から、旅をするように人生を生きることをめざす。2019年に東京から長野に移住。「あそび」と「しごと」をまぜ合わせながら、日々を過ごす。
https://www.instagram.com/tabisuru_keshiki
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