今、改めて、縄文
長野県では、縄文時代の息遣いを身近に感じることができる。
八ヶ岳山麓では多くのムラが栄え、日本でも有数の人口が暮らしていたという。国宝でもある土偶「縄文のヴィーナス」や「仮面の女神」など、多数の歴史的資料も発見されている。
霧ヶ峰高原東北端にある星糞(ほしくそ)峠には黒曜石の原産地があり、信州ブランドの美しい黒曜石が日本各地へと運ばれた。つまりここは、縄文時代の中心地のひとつだったのだ。
世界情勢や環境危機など、不安定で先行きが見えない現代。1万年も続いた縄文の平和な時代に、何かヒントがあるような気がしてならない。私たちが忘れてしまった大切なものが、きっとそこにあるのではなかろうか。
自然と共に生き、人と助け合って暮らした、縄文人の生活。可能であるならば、ぜひ当時の暮らしをしてみたい、と時々思う。でも、待てよ。もし今、万が一、縄文時代にタイムトリップしても、私は本当にそこで生きられるのだろうか?いや、無理だろう。“便利”に慣れ切った私の生きる力は、かなり低い。もっと縄文時代に行っても恥ずかしくない素養を身につけなければ…
そんな時に思い浮かんだのが、星糞峠の麓にある体験型博物館『黒耀石体験ミュージアム』だ。姉妹館の『原始・古代ロマン体験館』と合わせて様々な体験メニューがあり、実は以前の記事で既に“黒曜石の矢じり”と“縄文土器”を作っている。
が、それだけではまだ、縄文時代を生き抜けない。縄文人にがっかりされないような素養をもっと、身に付けたい…!毎回お世話になっている学芸員の大竹さんにそんな旨を相談したところ、ぜひ縄文体験にいらしてください、と快く歓迎してくださった。
前日の記録的な大雪がまだ残る山道を抜け、スキー場の目の前にある『黒耀石体験ミュージアム』に向かう。縄文人はこの厳しい寒さの中で、暮らしていたのか。…やはり私には無理か、と一瞬頭をよぎったが、いや、気合いだ、と気持ちを入れ直し、ミュージアムの扉を開けるのであった。
『黒耀石体験ミュージアム』で縄文人の素養を身につける
除雪の合間を縫って(相変わらずパワフル!)対応してくださった大竹さんは、「せっかく作ったばかりのナウマンゾウの雪像が、埋まっちゃった!」と大雪に嘆きながらも、いつもの笑顔で迎え入れてくださった。
『黒耀石体験ミュージアム』では常時多数の体験メニューが揃えてあり、大人も子どもも随時体験することができる。今回の私のわがままなお願いに対して、大竹さんがおすすめしてくれた体験メニューは、編布、勾玉、骨角器の3種類。
衣類など生活には欠かせない布と、祈りと共にあるアクセサリー、そして様々な道具にも応用できる骨角器。まんべんなく縄文人の素養を身につけられそうだ。
今とは比べ物にならないほど、“不便”な環境で、彼らは道具を生み出し、そこから様々なものを作り出した。私たちが当たり前だと思っているものも、当時では決してそうではない。知恵を絞って、ゼロから何かを生み出す。縄文人の生活は、とてもクリエイティブな営みだ。
「今も身近にある色々な道具などの元になるものが、縄文時代に既にあったんですよ。」と、大竹さん。先人たちは、どんな風にそれらを作っていたのだろうか。まずは“編布”について、教えていただこう。
今なお受け継がれる“編布”から見えてくる、縄文人の技術力
編布、と書いて、アンギン、と読む。「越後アンギン」として新潟県の魚沼地方に残り、今なお受け継がれている布の作り方である。簾のように縦糸と横糸を絡ませる“編布”は、縄文時代に既にあったという。
編布はカラムシという植物などから繊維を取り出し、糸を作って、編んだ。有機物なので朽ち果て、実物の発見はごく僅かであるが、敷かれていた編布の模様が土器の底に写ったものなどからもその存在が確認されてきた。布の色は、草木染めで自然の色が施されたかもしれないし、黒や赤の染料が土器に使われていることから、布にもその色が使われた可能性もある、という。
彼らの服や、日常で使った布は、一体どんな色だったのか。分からないからこそ、想像するのも楽しい。現代でも同じ技術が残っていると聞くと、やっぱり私たちは彼らの子孫なのだとつくづく思うし、何より既にその時代に確立されていた技術力の高さは特筆すべきだ。
何はともあれ、実際に作ってみることが大切だ。早速、編布を作ってみよう。
もくもくと、糸を編む
ミュージアムでの編布作りは、糸が引っかかるように溝が作られた木製のケタとアミアシ、そこに垂らして前後に交差させる糸が巻き付いたコモヅチを使う。
ケタの1,2,3,4,5の溝に沿って糸がついたコモヅチを前後に垂らす。これが縦糸になる。そこに交差させるように一本横糸を置いたら、1,3,5のコモヅチを、前後を入れ替えて横糸を挟むように交差させる。そうしたら再び横糸を置いて、今度は2,4のコモヅチを前後に交差させる。それを繰り返していくことで、布が出来上がっていく。
慣れれば、意外とスムーズに糸を編むことができ、繰り返しの作業も楽しい。
それにしても、布。これは当時の人たちにとって、とてつもない発明だったのだろう。初めて布を作った人の名前は、誰も知らない。でも、今なお人類すべてに確実に恩恵をもたらしている。なぜなら、私の日常の中でも、布に触れない日など一日たりともないからだ。
今、目の前に着実に出来上がっていく、糸の連なり。その一糸が、壮大な歴史の中で重なっていく、私たち一人ひとりの存在に思えてくる。ある時、布が出来上がり、それが今に連綿と受け継がれているように。全て人類が試行錯誤してきたことによって、今この瞬間が出来上がっている。
作っているのはコースターなので、小さい。しかし、それを通して広がる世界は、とてつもなく大きいもののように思えた。
有名人でない、ひとりの人
コースターが編み上がった時、今度はもっと大きなものも編んでみたい、と欲が出た。編む作業はとても心地よく、少しずつ出来上がっていく布を見ることで、達成感があったからだ。
もしかしたら、縄文時代に布を編んでいた人も、同じことを思ったかもしれない。家で手仕事をするのが得意な人、外へ出て動物を捕まえるのが得意な人、道具を作るのが得意な人、きっと色々な人がいたのだろう。
考古学とは人の生き方、つまり、日常や生活に関することを取り扱う学問なのだと、大竹さんが教えてくれた。歴史に名が残るような有名人でなくても、そこに確かにいたひとりの存在に目線を向ける。“普通の人”がどんな風に暮らしていたかを知ることが、大切なのだという。
何も出来ない私が縄文に行ったら、きっとそこには親切にしてくれる人がいて、色んな事を教えてくれたり、助けてくれたりするのだろう。それは、現代と変わらない。
私たちが日々を過ごす、気が遠くなるようなその毎日が、今も昔もずっと続いているという事実が、やっぱり何回考えても、不思議だ。
と、物思いに耽っているとあっという間に時間が経ってしまう。縄文人の素養をもっと身につけるのが、今回の目的だったことを忘れてはいけない。
とりあえず、布は編み方と道具の仕組みが理解できたので、どうにかなりそうだ。(カラムシの在処と繊維にする方法は、友だちになった縄文人に教えてもらおう)。
さて次は、勾玉をきれいに作る技術を身につける。自然現象の仕組みが明らかになっていなかった時代、“祈り”は人々の生活には欠かせないものだった。その“祈り”とも密接な関係がある勾玉について学びながら、実際に作ってみよう。
コスパとか、タイパとか
安い価格や短い時間で、いかに高い成果を得られるか。コストパフォーマンスやタイムパフォーマンスという言葉に、どうしても反発心を覚えてしまう(これは、私の生来のひねくれものな性格のせいだ)。
その言葉を言う時間と労力がもったいないのか、コスパ、タイパと短縮して呼ぶのにも、馴染めない。もちろん、それが必要な場面があるのも分かる。でも、私のささやかな人生の中では、できるだけ避けたいと思っている概念だ。
そういう気持ちで生きているので、現代社会のすさまじく早い移り変わりや、効率性を求める風潮になかなか馴染めない。だから、縄文時代にあこがれを持つのかもしれない。
さて、二つ目は装身具としても知名度の高い、“勾玉”作りを体験する。縄文修行をする際には、やっぱり外せない、マストアイテム。石に何かを見出し、それを美しく仕立てて、身に付ける。今も私たちは、様々な石で身を飾るが、この一連が、遥か昔から続く営みなのだから、どうしても惹かれざるを得ない。早速、“勾玉”や縄文に関するいろいろなことを教えていただこう。
勾玉と、祈りと
勾玉は誰もが知っている有名な装身具だが、実はおしゃれのために身につけていたわけではない。装身具を付ける場所は、首をはじめ、体の大切な場所。付けた人の身を守る、という目的が主であったと考えられている。
日々の生活の中では、大きな動物を捕えるなど、危険を伴うことも多い。また、今よりも、死が身近にある時代、健康であることはとても重要だったようだ。命を落としたりケガをしたりしないよう、人々は祈りを込めて勾玉を作った。
「コストパフォーマンスみたいな考えとは、真逆の価値観ですよ。時間をかけることが、大切だったんです。それだけ、“祈る”ことができるから。」
祈り。自然現象などに対して、分からないことが多かった時代では、祈りはとても重要なものとされ、人々の暮らしの中に当たり前のように存在していた。
人が人を思い、自然を思い、世界を思う。そうやって私たちの中に物理的、また、心理的なつながりが生まれていく。そこに効率などという概念は、存在しない。
そこで、ふと考えてしまった。今の私たちの日常の中に、“祈り”がどれだけあるだろうか?祈りとは、寺社仏閣に参拝するとか、宗教的な意味合いを持ったものだけではない。もっと身近な、大切な人や、遠く離れた誰かのことを、想う時間。
「効率を求めるがあまり、現代では人との関わりが減っていってますよね。」
大竹さんのその言葉が、胸に響く。用意してもらった体験用の“勾玉の元”を前に、なにか初心(これは、人としての初心なのだが)に立ち返るような気持ちになった。
ひたすら、擦る、削る、磨く
光り輝く勾玉を作るためには、とにかく擦り削り、そして磨くという工程が欠かせない。粗さの異なる道具を使って、ひたすら擦り磨いていく。
体験では砥石、目の粗い紙ヤスリ、目の細かい紙ヤスリの3種類を使う。
勾玉にする石はだいぶ角張っているので、擦り削り、磨き、つやつやの滑らかな勾玉にしていく。ちなみにこの体験メニューで使う素材は、蝋石。蝋石のモース硬度(主に鉱物の硬さを測る10段階の指標)は1、つまりとても柔らかい石だ。黒曜石は硬度5、翡翠や水晶は硬度7、ダイヤモンドはもっとも硬い、硬度10。
本来の勾玉には翡翠などを使うので、今回の作業は実際よりも難易度は低い。つまり、初級編だ。
まずは、蝋石を水に濡らそう。この、水に濡らしながら削る、という点も、大変重要な発見なのだという。摩擦熱を緩和しながら、滑らかにする。先人たちが既に発見していたやり方は、今なお継承されている。
次に、砥石に勾玉を色々な角度から擦りつけて、削る。勾玉の外側のカーブは削りやすいが、内側の部分は砥石の角を使い、角度を調整しながら細かく動かす。蝋石は柔らかく、砥石に当たる感触も心地よい。イメージとしては、硯で墨を磨っているような、そんな感覚だ。
あらかた角が取れたら、粗い紙ヤスリでさらに滑らかな形にしていく。耐水性の紙なので、ここでも水で濡らしながらやっていこう。この辺りから、磨く、という言葉がしっくりし始める。
いつも優しい大竹さんだが、この言葉選びに関しては、少し厳しい。それだけ、重要だと考えているからなのだろう。
石を割るのか、削るのか、切るのか、叩くのか。加工には様々な言葉を用いることができるが、自らの体験がないと、最適な言葉を選ぶことができない。
今はホームセンターに行けば、砥石に棒ヤスリ、用途に合わせたものが既にある。しかし、当時はそうではない。何かを作りたい、と思った時、それを作るための道具から用意する必要がある。
ちなみに体験で使っている砥石は、砂岩性。実は砥石の歴史は古く、野尻湖周辺の旧石器時代のムラでは、黒姫高原で採れる砂岩を砥石として用い、刃先を磨いた磨製の斧を作っていたという。そして、この砥石の用途は石以外にも、骨や木を擦り削って様々な形に仕上げる加工具として利用されており、砥石自体の形も目的によって多様だったようだ。
勾玉の角を丸くしたい、内側のカーブをきれいにしたい。縄文人もそんな思いから、様々な形の砥石を産み出していた。言い換えれば、今の私たちが目にしている用途に合った砥石の素材や形は、旧石器人や縄文人が生活の中で発見し、考え出したものなのだ。
さて、勾玉の傷がだいぶなくなってきた。最後は仕上げの目の細かい紙ヤスリでやさしく撫でながら、磨いていこう。勾玉を受け取った人はどんな人だったのだろう。願いはかなったのだろうか。そんなことを思い浮かべていると、輝きはじめた石を磨く手に、自然と気持ちもこもってくる。
できるだけ、つやつやに。できるだけ、美しく。あの人が喜んでくれるように。あの人の身を守ってくれるように。ここで、先ほどの話が腑に落ちたような気がした。なるほど、祈りって、こういうことなのかもしれない。
結局1時間以上、ひたすら磨いて出来上がった勾玉は、見本として置いてあるものより無骨な感じがするが、つい撫でたくなるような愛おしさがあった。紐を通し、ビーズもあしらったら、完成。達成感も、ひとしおだ。
柔よく剛を制す
勾玉の穴って、どうやって開けると思いますか?と、大竹さんが私に聞く。確かに、石に開いた、ひもを通す小さな穴。これはどうやって開けていたのだろう?きっと石よりも固いものだから…金属?いや、でも縄文時代にはまだ金属がない…とぐずぐずしていると、
「竹の管で開けたんですよ。」
と教えてくれた。竹???石に竹で穴を開けるなんて、思いもよらない答えに驚く。鉱物の粉をふりかけ、竹の管を回転させながら、少しずつ開けていったのだそう。よくそんな風にやってみようと思ったなあと、縄文人の発想につくづく感心させられる。
軟らかいものより硬いもの、少ないものより多いもの。現代ではそういう価値観になりがちだけれど、必ずしもそうではないこともありますよね、と大竹さんは続ける。
「まさに、柔よく剛を制す、でしょ?」
勾玉と、祈り。そこから垣間見える人の想い。また、道具を作るために人々が工夫した痕跡からも、私たちが学ぶべき点が、たくさんある。やっぱり知れば知るほど深い、縄文の世界。あこがれは募るばかりだ。
残りの作業も、がんばって!と、励ましの言葉を残して再び除雪作業に向かう大竹さん。その背中を見ながら、私は最後の体験メニュー制作へと気持ちを向けるのだった。
深淵なる骨角器の世界
真っ白な雪に囲まれた窓の景色。ここから外の世界を眺めていると、毎度不思議な気持ちになる。今私がいる場所に、縄文人たちがいて、同じ景色を眺めていた。そう思うと、今が21世紀であることが、にわかに信じられなくなるからだ。
途方もなく長い年月を、ここにある山々は目撃していた。その片鱗を、ほんの少しだけでも見てみたいものだと、切に思う。と、妄想はさておき、とにかく今は縄文修行だ。
最後の締めくくりは、骨角器を作る。骨角器とは、動物の骨や角で作られた道具のこと。大竹さん曰く、骨角器は“深い”らしい。
「骨角器の針はノーベル賞もんですよ。だって、縫い針のおかげで、人類がいろんな所に住めるんですから。」
小さな縫い針が、私たちの世界を広げた。考えたこともなかったその言葉に、一瞬にして惹きつけられる。頭の中には、まだ見ぬ太古のロマンが広がるのであった。
小さな針だけでない、縄文にすでにあった道具たち
縫い針は、縄文時代に動物の骨や角を使って作られた。私たちは今、地球の色々な気候の場所で暮らしているが、特に寒冷地に住むためには防寒は必須。長野県にいれば、身をもってそれを体験するはずだ。
じゃあ、いにしえの人々はどうしたのだろうか?彼らは、暖かい動物の毛皮などを纏っていたと考えられている。そしてそこに必要なのが、針、なのだ。
縫い針が発明されたことによって、毛皮などを縫い合わせ、衣服などを作ることができるようになった。そして、温暖なところから寒冷地まで、様々な気候に適応できるようになり、住む場所を広げることができたのだ。
つまり、人類の発展に大きく関わっている道具のひとつが、針なのだという。確かに、ノーベル賞もの、人類への貢献は、間違いない。
「網を編んだり繕ったりする網針(あばり)も、縄文時代のものと同じ形のものが今も使われているんですよ。私も漁師さんに見せてもらったんだけど、本当に同じでした。今では滑りの良い鹿の角のものは高級品みたいですね。」
現代では安価なプラスチック製の網針を使っているそうだが、形は全く同じ。そしてさらに不思議なのは、どこの国でも同じような形が使われるということだ。また、回転式離頭銛(りとうもり)と呼ばれる、大型の魚類や海獣を捉えるための紐のついた銛も、縄文時代で使われていたことが確認されている。縄文人、すごすぎる。
このように現代でも使われる多くの道具の源流となっている、骨角器。大竹さんが骨角器は深い、と言っていた意味が分かるような気がする。
化学変化を利用して初めて生み出された、土器。素材の弾力性を活かして遠距離の獲物を狙う弓矢。動物の骨や角から削り出した、縫い針をはじめとする骨角器。縄文時代には、たくさんの発明の痕跡がある。彼らの創造力には、本当に驚かされるばかりだ。
再び、擦る、削る、磨く
骨角器作りの基本的な作業は勾玉の時と同様、ひたすら擦り削って、磨く。砥石と紙ヤスリ2種類を使って磨きまくるのだが、今回は形に自由度が高いのが、勾玉とは違うポイントだ。
勾玉はある程度の形が決まっているので、それに沿って擦り削り、磨く作業を行うが、骨角器は実際に針のみならず、アクセサリー、ヘアピン、銛、ヤス等のバリエーションが存在しているので、可能性は無限大だ。
今回は初級編のペンダントトップを作るので三角形がベースではあるが、溝をつけたりデザインするのも楽しいですよ、とスタッフさんに教えていただいた。せっかくなので、少し形を変えてみよう。
まずは、角ばったところを砥石にこすりつけて擦り削る。体験メニューでは牛の大腿骨を使っているのだが、これもスタッフさんが髄を取り、コトコト程よく煮て、干したものだそう。
ちなみに勾玉と骨角器ペンダントの紐を通すビーズも、ガラスの棒から一つひとつ作っているという。もしかして、縄文人の素養を身につけるためには、ここで働くことが一番の近道なのかもしれない、と作業しながら、思う。
あらかた砥石で削ったら、好きな形に溝を入れる。今回は、サイドにぎざぎざ模様を入れてみることにした。削りたいところを砥石の角に当て、これまたひたすら擦り削る。形を変える作業は、角を取る作業とは違い、力も時間も必要だ。
あらかたの形ができたら、粗い目の紙ヤスリに持ち替えて、同じように水を付けながら、ひたすら磨く。骨は、ざらざらとした質感から、滑らかで吸いつくようにしっとりとした肌触りになっていく。
ぎざぎざ部分を、その凸凹がなくならないように、注意深く磨いていこう。この大雑把な形でさえ手間がかかるのに、もっと緻密で複雑なものを手で形作っていくのだから、縄文の道具作りは、それはそれは繊細な作業だったのだろう。
獲物を捕らえて、その肉をいただいたら、こうやって骨まで道具として利用する。自然の恵みを最大限利用したこの営みは、本当に無駄がなく見事であるとともに、それ以上に恵みに対する敬意を感じる。
使い捨ての現代の生活を見たら、縄文人はどんな風に思うのだろう。後ろめたさを感じながら、もっと修行せねば、と謎の使命感も抱く。骨をひたすら磨き上げてペンダントを作り上げた時には、もう閉館時間が近づいていた。
人の生き様が刻まれた、道具
「道具は、哲学なんですよ。」
全ての体験メニューを終えたところで、お茶に誘ってくれた大竹さん。色々なお話をしてくれた中でも、この一言は私の中にとても印象深く残った。
縄文人は、数多くの道具を残したが、手作りの道具は、同じ“種類”の道具でも、全く同じではないのだと、大竹さんは言う。その人の使い方によって、道具の形状が少しずつ異なっていく。つまり道具を見れば、その人の生き方が自ずとそこに立ち現れていくのだ。
ぎざぎざ模様の骨角器のペンダントは、大雑把で、不均等で、まるで私そのものを表しているようだった。でも、それも含めて、今の私にしか作れないもの。そう思うと、やっぱり愛おしい。
縄文人が作った様々な道具たち。それに触れれば触れるほど、彼らがいかにして身の回りの世界を見つめ、工夫していたかが伝わってくる。
道具を作るためには、作りたいものとか、捕まえたいものとか、向き合う対象の本質を理解する必要がある。縄文人は五感をフル活用して、注意深く物事を見つめていたはずだ。
その結果出来上がった道具は、とても理(ここでの理は文字通り、世界のことわりだ)にかなったものになる。今なお使われ続けるような、洗練された形がすでに完成されていることが、言葉よりも多くを語る。
そして、我に立ち返る。日常でこんなに世界をじっくり見つめることなんて、あるだろうか。目先の忙しさに囚われていないか。私たちの生きる、この紛れもなく足元に広がる世界をないがしろにして、小さな画面越しに広がるつかみどころのない世界へ、目が向いていないか。
ともすると、現代人はいにしえの人々を自分たちよりも“劣った存在”であると考えがちである。が、学べば学ぶほど、決してそうではないということが分かる。むしろ今よりも遥かに多い未知より“知”を生み出してきた先人は、私たちより優れた洞察力を持っていたかもしれない。
まだ縄文人の門へ、足を踏み入れたばかり。体験メニューをすべて終え、修行の足りなさを実感する。
今度は骨角器の針で魚を釣って、黒曜石のナイフで三枚におろして、土器を使って調理してみたら?と大竹さんがいたずらっぽく笑う。でも、やってみたい、と思ってしまう自分もいて、それにもまた笑ってしまった。
お疲れ様、また来てね、と笑顔で送り出してくれた大竹さんが最後に、これ、お土産、と私に渡したのは、ジッパー付きのビニール袋に入った星型やハート形の黒い塊。袋には何やら発掘現場で使われていそうな記号と「Obsidian(黒曜石)」と書いてある。
これ、発掘された黒曜石ですか?でも形が…と怪しんでいると、おもむろに大竹さんはもうひとつの袋から塊を取り出し、口に放り込んだ。「割れたところとか、そっくりなの!」
魚を釣るとしたら、夏くらいかなあと、雪で覆われた山道を下りながらおもむろに考える。家に帰り、もらった黒曜石風の飴(本当に、そっくりだ)を口に入れる。甘くて、おいしい。
大竹さんと、縄文人の息遣いを感じるこの山々との、再会が楽しみだ。今回作った編布、勾玉、骨角器は、部屋の縄文コーナーに丁寧に飾り付けた。それを眺めながら次の縄文修行のことを考えると、再びうきうきが止まらないのであった。
取材・撮影・文:櫻井 麻美
『黒耀石体験ミュージアム』
https://hoshikuso.jp/
<著者プロフィール>
櫻井 麻美(Asami Sakurai)
ライター、ヨガ講師、たまにイラストレーター
世界一周したのちに日本各地の農家を渡り歩いた経験から、旅をするように人生を生きることをめざす。2019年に東京から長野に移住。「あそび」と「しごと」をまぜ合わせながら、日々を過ごす。
https://www.instagram.com/tariru_yoga/
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