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特集『新緑の長野へ。“ハレの日旅”』 古きを歩き信州の歴史を知る。旧街道を巡る新鮮カルチャーの旅へ

道をたどれば、歴史と文化が見えてくる。物流や交通上の重要インフラである道は、いまも昔も人々の暮らしを支えています。なかでも街道や古道は、庶民から殿様、武将や僧侶まで、身分に関わらず幅広い人たちが往来してきた歴史があり、道中では史跡や文化財だけでなく、往時の名残を見ることも。時空を超えたような錯覚は、歩いてしか得られない醍醐味です。

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TOP PHOTO 写真提供:(一社)南木曽町観光協会

石畳の峠越えで江戸時代の旅人たちに思いを馳せる【中山道・馬籠峠】(南木曽町)

江戸時代の五街道のひとつ、中山道。江戸と京都を結ぶ重要な街道として東海道とともに多くの人が行き交い、全長135里32町(丁)(約534km)の間に69の宿場が置かれました。そのうち、木曽川に沿った急峻な木曽谷を通る「木曽路」には11宿が置かれ、いまも風情ある宿場町の町並みが残っています。

その木曽路を代表する名所である南木曽町の妻籠宿は、中山道42番目の宿場。中山道と飯田街道(名古屋~飯田)の分岐点に位置し、交通の要所としても栄えました。敵の侵入を防ぐために道を二度直角に折曲げた枡形(鉤形に曲がった道)が残る町並みに江戸時代からの建物が並び、往時にタイムスリップしたかのような感覚を味わえます。昭和51(1976)年には日本で初めて重要伝統的建造物群保存地区に選ばれました。

木曽の宿場町のなかで最も保存状態がよい妻籠宿。全長約800mと木曽11宿のなかで最も小さな宿場ながら、交通と商業の要所として栄えた(写真提供:(一社)南木曽町観光協会)

住民たちの保存運動の努力により、最初に保存事業が行われた寺下地区は妻籠宿保存の原点の場所(写真提供:(一社)南木曽町観光協会)

過去の水害により、寺下地区は道が嵩上げされて一段高くなっている。江戸時代には80あまりの旅籠や店が並んでいたという(写真提供:(一社)南木曽町観光協会)

この妻籠宿から、標高790mの馬籠峠を経て、中山道43番目の宿場で木曽路の最南端にあたる岐阜県中津川市の馬籠宿までは全長約8km。ゆっくり歩いて3時間の道のりです。石畳など旧街道の風情が色濃く漂い、国の史跡にも指定。近年は、かつて侍たちが歩いた道として、外国人旅行者に「サムライロード」とよばれて人気を集め、最近では若者の間でもその魅力が再認識されています。

妻籠宿から馬籠峠へは、ゆるやかで長い上り坂。妻籠宿と馬籠宿の間宿として栄えた「大妻籠」を経て、歴史を感じる石畳の旧道へと進みます。つづら折りの道を登っていくと、「男滝・女滝」に到着。「男滝」は“国民文学作家”として知られる吉川英治の名作『宮本武蔵』のなかで、武蔵が修業をした滝として知られる落差10mの名瀑で、「女滝」は落差12mの滝。どちらも町の名勝に指定されています。

「男滝・女滝」から岐阜と長野の県境にあたる馬籠峠までは、約2.5km、50分。途中の「一石栃立場茶屋」は馬籠宿と妻籠宿のほぼ中間地点に位置し、無料で休憩ができます。その隣の「一石栃白木改番所跡」では、明治2(1869)年まで尾張藩がヒノキなどの木曽五木をはじめとする伐採禁止木の出荷統制を行っていました。

馬籠峠の頂上からは、妻籠宿や三留野方面まで展望ができます。馬籠宿へは短い急坂。雄大な恵那山(標高2,192m)を一望できる展望広場を過ぎると、石畳の坂に沿って馬籠宿が見えてきます。文豪・島崎藤村の誕生の地でもあり、代表作『夜明け前』の舞台。作品のゆかりの場所が残っており、文学散策が楽しめます。

到着後、馬籠宿から妻籠宿への帰路はバスを利用しますが、逆ルートで歩くのもおすすめ。最初にバスで妻籠宿から少し標高の高い馬籠宿に向かい、馬籠宿からスタートすると、下り基調なので多少楽に歩くことができます。

妻籠宿から馬籠峠への道はひっそりとした趣があり、道中、かつての石畳が数カ所残っている。ほどよい高低差で街道歩きが楽しめるのも魅力(写真提供:(一社)南木曽町観光協会)

四季折々の景色を眺めながらハイキングが楽しめる。写真右の男滝(おだき)は小説『宮本武蔵』のなかで、武蔵が剣術の鍛錬に集中するため、最愛の女性への情熱を抑えるべく飛び込んだ(写真提供:(一社)南木曽町観光協会)

馬籠峠の頂上には正岡子規の「白雲や青葉若葉の三十里」の句碑もある(写真提供:(一社)南木曽町観光協会)

妻籠宿の北西に位置する妻籠城跡からは妻籠宿から馬籠峠まで一望できる(写真提供:(一社)南木曽町観光協会)

COURSE DATA
妻籠宿(60分)→男滝・女滝(50分)→馬籠峠(60分)→馬籠宿

INFORMATION
〈馬籠峠〉
長野県木曽郡南木曽町~岐阜県中津川市
TEL 0264-57-2727((一社)南木曽町観光協会)
https://nagiso.jp/

木曽路一番のにぎわいを見せた奈良井宿と薮原宿を結ぶ屈指の難所【中山道・鳥居峠】(塩尻市・木祖村)

奈良井宿(塩尻市)は木曽路で最も隆盛を極めた日本最長の宿場町。中山道のちょうど真ん中に位置する34番目の宿場で、奈良井川沿い約1kmにわたって江戸時代の面影を色濃く残す町並みを形成しています。木曽11宿のなかでは標高が900mと最高所で、木曽路最大の難所といわれた標高1,197mの鳥居峠の北に位置する交通の要。峠越えに備える旅人の癒しの場として、「奈良井千軒」と謳われるほど栄えました。昭和53(1987)年には、妻籠宿に続き、宿場町として全国2番目に国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。

その難所である鳥居峠を経て第35宿の薮原宿までを結ぶ約6kmの道は、古くから美濃と信濃の国境として開拓され、約1,300年前に完成した古道。いまでは石畳の道が復元され、昔ながらの風情が漂うハイキングコースとして整備されています。妻籠宿と馬籠宿を結ぶ馬籠峠と同様、近年は外国人観光客をはじめ、日本の若者たちにもノスタルジックな街道歩きが楽しめると人気を集めるルートです。

かつては街道を行き交う旅人で栄え、時代を超えた風格が感じられる奈良井宿。鳥居峠は厳しい山道だったことに加え、盗賊などの危険が多く、奈良井で宿を取って翌朝一番に峠を越えた旅人が多かったそう(写真提供:奈良井宿観光協会)

奈良井宿のなかに残る6カ所の水場は、生活用水や火事の消化のために使われたほか、旅人の喉の渇きを癒してきた(写真提供:奈良井宿観光協会)

町の南端に位置する奈良井宿の鎮守「鎮神社」。やや高台に位置し、奈良井宿方向を見渡すと、街道の両側に木工品を扱う漆器店や土産物店が並ぶ様子が見える(写真提供:奈良井宿観光協会)

奈良井宿側の鳥居峠の登り口は、宿場町の西のはずれに位置する鎮(しずめ)神社の先。石畳の道を登っていきます。しばらく歩くと現れる「中の茶屋」は、戦国時代、木曽義昌と武田勝頼軍の戦いの場となった古戦場。さらに山道を上がると、標高1,197mの鳥居峠の頂上を経て、御嶽神社(御岳遙拝所)に到着します。石の鳥居は戦国大名・木曽義元が戦勝祈願して奉納したもので、鳥居峠の名の由来になりました。本殿横からは御嶽山を望めます。

鳥居峠を下って、再び復元された石畳を通過し、薮原宿へ。薮原宿もまた、鳥居峠越えに備えた宿泊客で栄えた宿場でした。火災のため往時の面影を見ることはできませんが、長野県伝統工芸品の「お六櫛」の産地として有名です。上高地に入る南ルートの基点でもあり、野麦峠を越える飛騨街道の追分の宿で、諏訪に向かう女工たちでにぎわったともいわれています。

なお、この鳥居峠のコースは、奈良井宿にも薮原宿にもJR中央本線の駅があり、本数は多くないものの、電車で移動ができるのもポイント。奈良井宿と薮原宿の標高はほぼ同じで、鳥居峠のピークもほぼ中間地点に位置するため、どちらからスタートしても所要時間はほぼ同様です。電車の時刻に合わせて行程を組むのもよいでしょう。

木曽義昌が武田勝頼の二千余兵を迎撃した古戦場跡に建つ「中の茶屋」。茶屋手前の沢に葬ったことから「葬沢」とよばれた(写真提供:奈良井宿観光協会)

コース上は石畳が何カ所か復元されている。奈良井宿と薮原宿にある3カ所の案内所では桧笠や熊鈴を借りることができる(写真提供:木祖村役場産業振興課)

わらじ履きの足を泣かせる中山道屈指の難所で、江戸末期には皇女和宮が降嫁の旅で通過した歴史の道(写真提供:奈良井宿観光協会)

御嶽神社の鳥居。明応年間(1492~1500)、松本の小笠原氏との戦いで木曽義元が峠の頂上に鳥居を立て、御嶽権現に戦勝を祈願したことから「鳥居峠」と呼ばれるようになった(写真提供:木祖村役場産業振興課)

鳥居を進むと見えてくる御嶽神社。遠く御嶽山を遥拝する場所として人々の崇拝を集めた(写真提供:木祖村役場産業振興課)

丸山公園には松尾芭蕉をはじめ、俳人・歌人の句碑や石仏が数多く立っている(写真提供:木祖村役場産業振興課)

COURSE DATA
奈良井駅(25分)→鎮神社(20分)→中の茶屋(30分)→峰の茶屋(10分)→御嶽神社(10分)→丸山公園(40分)→石畳道分岐(5分)→消防署横(15分)→御鷹匠役所跡(5分)→薮原宿本陣跡(20分)→藪原駅

INFORMATION
〈奈良井宿・鳥居峠〉
長野県塩尻市奈良井
TEL 0264-34-3160(塩尻市観光協会 奈良井宿観光案内所)
https://www.naraijuku.com/

〈薮原宿・鳥居峠〉
長野県木曽郡木祖村薮原
TEL 0264-36-2543(木祖村観光協会)
https://www.kisotourism.com/

下諏訪宿【甲州街道】と【中山道】合流の地を中心に、ふたつの道筋から往時を偲ぶ(下諏訪町)

甲州街道(甲州道中)も江戸時代の五街道のひとつ。江戸城が攻め落とされた際の避難路であったともいわれており、八王子や甲府を経て信州に入り、中山道と合流するまでを結ぶ53里2町(丁)余り(約210km)の街道です。その甲州街道と中山道の合流地点が、下諏訪町の下諏訪宿にあたります。

甲州街道は参勤交代では主に、高島藩、高遠藩、飯田藩の3藩と甲斐の諸藩が利用する程度でしたが、江戸時代の中・後期の天下泰平の時代になると、甲州や信州から江戸へ農産物を運ぶ流通の道として重要性を増し、江戸100万人の生活を支える幹線として発展しました。宿場を拠点に江戸との交流による文化が育まれ、娯楽や芸能も含めて、さまざまな名所旧跡や歴史が街道に残っています。とくに下諏訪宿は主要なふたつの街道が交差していたことに加え、古くから諏訪大社の門前町として栄えており、道中で唯一温泉の湧く宿場町でもあったことから大いににぎわいました。

上諏訪駅を出発し、下諏訪の秋宮や「甲州道中・中山道合流之地」までの甲州街道を歩くコースは約4.5km、徒歩で1時間ほど。上諏訪宿と下諏訪宿の間に残る中の茶屋「橋本政屋(はしもとまさや)」や、アララギ派の詩人・島木赤彦の自宅「柿蔭山房(しいんさんぼう)」などの名所や史跡を経て、甲州街道の終点である「甲州道中・中山道合流之地」の石碑へと向かいます。石碑から徒歩1分の「宿場街道資料館」では、江戸時代の下諏訪宿の様子を知ることができ、無料休憩所としても利用可能。2019年には、中庭に地元の石材を使って中山道の雰囲気をイメージした和風庭園が完成し、誰でもゆっくりと過ごせます。

COURSE DATA
上諏訪駅(30分)→橋本政屋(5分)→高木津島神社(1分)→柿蔭山房(10分)→石投げ場(10分)→富部一里塚(10分)→承知川橋(15分)→諏訪大社下社秋宮(5分)→甲州道中・中山道合流之地(1分)→宿場街道資料館

上諏訪駅から徒歩30分ほどに位置する「橋本政屋」は、諏訪湖が一望できる茶屋跡。江戸時代の面影をそのまま残した建物で、門は医薬門という格式ある形式。高島城から移築したものか写しといわれる。内部は現在、閉鎖中(写真提供:下諏訪観光協会)

諏訪湖を眼下にした展望が開け、甲州街道沿いで最も眺望がよいとされる「石投げ場」。昔は現在よりも諏訪湖が広く、石を投げれば諏訪湖に届くような場所だったことから名づけられた(写真提供:下諏訪観光協会)

諏訪大社上社秋宮を過ぎると、まもなく中山道との合流地点につきあたる(写真提供:下諏訪観光協会)

江戸から53里11町(丁)(約210km)の地点で中山道と合流。「甲州道中」は甲州街道の正式名称で、当初は「甲州海道」だったものの、海辺を通る道ではないからと、正徳6(1716)年に「甲州道中」と改称された(撮影:モモセヒロコ)

「宿場街道資料館」の建物は、明治7(1874)年に一帯が大火に見舞われた後に建てられたが、江戸時代の商家の特徴をよく残している(写真提供:下諏訪観光協会)

町の自然や歴史を取り込んだ資料館の和風庭園。下社秋宮境内の千尋池を水源とした水路を設けて黒曜石を置き、かつて大社通りに敷き詰められていた「ピンコロ石」で石畳をつくった(写真提供:下諏訪観光協会)

深山幽谷の景色と名石を集めて10年かけてつくられたという「下諏訪宿本陣」の回廊式庭園。2023年3月には県宝に指定された(入館は要予約、大人500円・小・中学生300円)(写真提供:下諏訪観光協会)

「下諏訪宿本陣」は皇女和宮が輿入れの際に泊まった上段の間や明治天皇の玉座にもなった武家茶室がいまもそのまま残されている(写真提供:下諏訪観光協会)

春宮横の田んぼの中に鎮座する「万治の石仏」。自然石にちょこんと頭を乗せた姿が味わい深く、胸部に描かれた逆卍(ぎゃくまんじ)や雷、月や太陽などの記号がミステリアス(写真提供:下諏訪観光協会)

「甲州道中・中山道合流之地」から中山道を北上してみましょう。徒歩1分ほどにある「下諏訪宿本陣」は、参勤交代の諸大名が泊まった本陣。中山道随一とされる京風庭園は植物も江戸時代のままで、かつては皇女和宮や明治天皇が立ち寄られました。
そこから徒歩15分で諏訪大社下社春宮に到着し、境内の小道を抜けると、自然石でつくられたユニークな佇まいの「万治の石仏」があります。高さ約2mの阿弥陀如来の石仏で、芸術家の岡本太郎をはじめとする著名人が絶賛したことで、全国に知られるようになりました。

さらに、下社御柱祭の最大の見せ場「木落し」が行われる「木落し坂」までは下社春宮から30分。その先には、江戸から54里(約212km)であることを示す一里塚や、町指定文化財の樋橋茶屋跡、幕末の頃に水戸藩を脱藩した浪士軍と高島・松本藩が激突した戦死者を偲ぶ浪人塚などがあります。
「甲州道中・中山道合流之地」から、この樋橋茶屋跡までは約6.7km。徒歩で1時間30分ほどの道のりです。帰路は、樋橋茶屋跡の樋橋バス停から下諏訪駅までバスで戻ることができます。

COURSE DATA
甲州道中・中山道合流之地(1分)→下諏訪宿本陣(15分)→万治の石仏(5分)→諏訪大社下社春宮(30分)→木落し坂(20分)→樋橋一里塚(54里)(20分)→樋橋茶屋跡(10分)→浪人塚

INFORMATION
〈下諏訪町 甲州街道・中山道〉
長野県諏訪郡下諏訪町
TEL 0266-26-2102(下諏訪観光協会)
https://shimosuwaonsen.jp/

日本神話の時代からの信仰と歴史、自然を感じる巡礼の道【戸隠古道】(長野市戸隠)

信越国境にまたがる戸隠山(1,904m)は、その急峻な山容から、古来、山岳信仰の対象とされてきました。縁起によると849年に学問行者が開山し、山岳信仰と密教系の仏教が結びついて修験道が成立していったといわれています。その後、多くの修験者が山に入り、鎌倉時代には比叡山、高野山と並ぶ一大霊場として繁栄しました。また、日本神話の天岩戸伝説も伝わり、戸隠山は天岩戸が落下して誕生したとの伝承も。戸隠神社五社のうち、奥社・中社・宝光社・火之御子社の御祭神は「天岩戸開き神話」にゆかりのある神々で、九頭龍社には地主の農耕の神の九頭龍が祀られ、いずれも創建2,000年余に及ぶ歴史を刻んでいます。

そんな戸隠神社五社周辺をたどる「戸隠古道」。戸隠神社の参拝道や山岳修験道のほか、武田信玄の軍用路などにも使われ、さまざまな時代の歴史が重なる巡礼の道です。起点は、戸隠神社の神領への入口に建てられた「一之鳥居」跡がある一の鳥居苑地。戸隠神社奥社まではいくつものルートがあり、五社巡りをはじめ、鏡池や森林植物園といった観光スポットに通じる道も開かれています。歩いてしかたどり着けない史跡が点在しており、車の旅では味わえない歴史や文化を感じられるのも魅力です。

戸隠山を主峰とする戸隠連峰は、屏風を立てたような急峻で断崖絶壁の山容が九頭竜神に見立てられたことから戸隠信仰が発生したという(写真提供:戸隠観光協会)

一の鳥居苑地は、戸隠山の東にそびえる飯縄山の登山口にあたり、広い無料駐車場もある。戸隠古道は県道56号線(戸隠バードライン)脇からスタート(写真提供:戸隠観光協会)

木立のなか、心地よい道が続く。一町(丁)(約109m)ごとに丁石(ちょういし)とよばれる道標が置かれているので目安になる(写真提供:戸隠観光協会)

修験の時代には「戸隠三千坊」とよばれるほど数多くの宿坊が立ち並んだ(写真提供:戸隠観光協会)

一の鳥居苑地から奥社まで続く「戸隠参拝古道コース」はおよそ12.5km、4時間余りの道のり。高低差はありますが整備された歩きやすいトレッキングコースが続き、かつて関所が置かれたともされる祓沢(はらいざわ)や絶景ポイントの湯ノ嶺夕陽展望苑などを経て、2時間半ほどで宝光社へ。270段余りの石段を上ると、五社のなかで最も古いといわれる荘厳な社殿が現れます。

宝光社の境内右手奥から中社までは神道(かんみち)とよばれる古道。火之御子社までは約700m、10分ほどで、中間付近には、女人禁制の時代、女性やお年寄りは戸隠山を拝んだとされる伏拝所(ふしおがみしょ)があります。火之御子社から約30分で見えてくるのが、84年ぶりに建て替えられたという中社の大鳥居。その隣に立つ樹齢800年といわれる3本の大きな杉や境内の樹齢700年を超えるご神木などからも長い歴史が感じられます。

中社から奥社参道入口までは約30分。道中には旧跡が点在し、女人堂跡や比丘尼石、女人結界碑など、女人禁制の時代の名残を感じさせるものも少なくありません。奥社参道入口から戸隠神社本社である奥社と九頭龍社までは片道約2km、30~40分の道のり。参道には茅葺き屋根の隋神門や樹齢400年を超える約500mの杉並木などが続き、自然と人間が共存する聖域に入り込んだような荘厳な雰囲気に包まれます。石段状の上り坂を経て、奥社、九頭龍社へ。社殿の奥には戸隠山が迫る絶景が広がり、達成感とともに神聖な空気を味わうことができます。

宝光社に至る長く急な石段。登った先に美しい彫刻が施された宝光社が見えてくる。戸隠古道のコースのひとつには宝光社を起点とする「五社巡りコース」も(写真提供:戸隠観光協会)

戸隠エリアの中心部に位置する中社。中社や宝光社周辺の宿坊群を中心とした街並みは、国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されている(撮影:阿部宣彦)

奥社参道は一般車両の進入は不可。ほかの三社は車でもアクセスできるが、奥社と九頭龍社は徒歩のみでしかたどり着けない(撮影:阿部宣彦)

奥社参道入口から約1km、中間地点に位置する朱塗りの随神門。左右に鎮座する随神が邪悪なものの侵入を防いでいる。夏は茅葺き屋根に植物が繁茂し、自然の力強さも感じられる(写真提供:戸隠観光協会)

随神門の先に約500m続く200本ものクマスギの並木は江戸時代に植えられたもの。スケールの大きさに神々しさを感じる。長野県の天然記念物に指定(撮影:阿部宣彦)

奥社手前は石段の坂道で、修験者の気分も味わえる(写真提供:戸隠観光協会)

天気がよければ、奥社の社殿の背後に戸隠山が迫る絶景も楽しめる。宝光社からは約6kmの道のり(撮影:阿部宣彦)

COURSE DATA
一の鳥居苑地(70分)→祓沢(20分)→湯ノ嶺夕陽展望苑(40分)→宝光社(10分)→火之御子社(30分)→中社(40分)→奥社参道入口(20分)→随神門(20分)→奥社・九頭龍社

INFORMATION
〈戸隠古道〉
長野県長野市戸隠
TEL 026-254-2888(戸隠観光協会)
https://togakushi-21.jp/

塩を運び、信仰を伝えてきた【秋葉街道・山塩の道】と【大鹿歌舞伎】(大鹿村)

山間の長野県において、生きていくうえで欠かせない塩は、かつて海のある土地からしか得られない貴重な資源でした。海から山へと塩を運ぶ「塩の道」は県内各地に存在し、人々の暮らしを支えてきたのです。そのひとつが、塩の一大産地であった太平洋の遠州灘(静岡県)相良(さがら)から秋葉山本宮秋葉神社(あきはじんじゃ)を通り、南信州の遠山地方や大鹿村を経て諏訪湖へと続く秋葉街道(かつての遠信古道)。現在の国道152号線を中心に、中央構造線の谷に沿って走る総延長220km余りの街道です。太平洋と内陸を一直線に結んでおり、塩のほかに和田峠(長和町)で採取された黒曜石の交易もうかがえことから、縄文時代からすでに山と海を結ぶ「塩の道」として使われていたと想像されています。

その後、秋葉神社参詣のための信仰の道としても利用されるようになり、「秋葉道(秋葉街道)」とよばれるようになりました。また、諏訪大社や善光寺参りの道としても使われ、江戸時代には数百万の信者が参詣路として行き交ったといわれています。ただし、秋葉信仰が広まる以前から存在していた古道であることから、民俗学者の柳田国男は『東国古道記』のなかで「我々から言うならば寧ろ諏訪路とも、遠山通りとも呼んでみたい」と述べています。それほど、この道が信仰の側面だけでない重要な歴史を担ってきたといえるでしょう。

南北朝時代や戦国時代には軍用路としても利用された秋葉街道。江戸時代からは秋葉神社参詣としての往来が盛んになった(写真提供:大鹿村役場産業建設課)

かつては秋葉街道が諏訪から太平洋への最短経路だった。街道沿いには多くの城館跡や神社、遺跡、伝説が残されている(写真提供:大鹿村役場産業建設課)

国道152号沿いには本州を縦断する中央構造線の断層が川に面して露頭している。恐竜がいた中生代白亜紀に誕生したもので、写真の「安康露頭」は村中心部の「大鹿村中央構造線博物館」から約8km南に位置し、国指定天然記念物(写真提供:大鹿村役場産業建設課)

「大鹿村中央構造線博物館」から約16km北には「北川露頭」もある。おもに花崗岩からなる内帯(日本海側)の岩石と、おもに緑色片岩からなる外帯(太平洋側)の岩石が接している境界が中央構造線で、色の違いがわずかにわかる。こちらも国指定天然記念物(写真提供:大鹿村役場産業建設課)

一方で、神話の時代、出雲の国譲りで追われた建御名方命(タケミナカタノミコト)は、道中の大鹿村鹿塩地区の葦原で塩水が湧き出ているのを見つけ、鹿や猪の肉を調理するのによいと、しばらくここで暮らしていたとの言い伝えもあります。海水と同じくらいの濃度の塩水が湧く、現在の鹿塩温泉の源泉です。
しばらくして建御名方命は諏訪へと居を移し、諏訪大社を構えました。狩猟の神を祀り、鹿食免(仏教では肉食は禁忌とされるなか、鹿を食べてもよいという免罪符)を頒布したのは、鹿塩地区で発見した塩水のつながりからとの伝承もあるとか。その建御名方命がたどったルートもまた「秋葉街道(塩の道)」と重なっていることも見過ごせないポイントです。鹿塩温泉から製塩される塩が「山塩」とよばれるのにならい、「山塩の道」ともいえそうです。

このように信仰の道としての側面ももつ「塩の道/山塩の道」のうち、鹿塩地区から居森山を経て大河原地区を結ぶコースが、地元有志「秋葉古道歩き隊」によって整備され、案内板などの設置によって自由に散策できるようになっています(所要約2時間)。毎年秋には、案内付きで巡るイベントも開催。鹿塩地区の「塩の里直売所」から大河原地区の道の駅「歌舞伎の里大鹿」まで歩く約4kmのコースで、途中、夜泣き松、断層鞍部地形、断層谷の遠望などの見どころが楽しめます。

また、「塩の里直売所」がある鹿塩地区には、神話の時代に建御名方命が塩水を見つけて暮らしたとされる「葦原神社」があります。神社の向かいには村指定文化財の歌舞伎舞台があり、7年に一度、御柱祭の年にのみ歌舞伎を上演。一説によると、この神社周辺が大鹿村の地芝居(大鹿歌舞伎)発祥の地とされています。

国重要無形文化財に指定されている大鹿歌舞伎は、現在、春と秋に定期公演を開催。春はルートのゴールである大河原地区の道の駅「歌舞伎の里大鹿」から徒歩15分ほどの大磧(たいせき)神社、秋はコース上の鹿塩地区の市場神社で行われ、県内外から多くの見物客が訪れます。

長野県指定天然記念物に指定されている樹齢約700年のアカマツの大木「夜泣き松」。松の枝を夜泣きする子の枕元に置くと泣き止むという言い伝えがある(写真提供:大鹿村役場産業建設課)

この道路の上が断層鞍部で、道路の真ん中あたりに日本列島を二分する中央構造線が通っている。道路脇に河合断層鞍部の解説があり、南側には居森山の断層鞍部を望む(写真提供:大鹿村役場産業建設課)

林の中の急な登りを20分ほど登りきると居森山の頂上部へ。頂上からは中央アルプスを望め、眼下に夜泣き松が見える(写真提供:大鹿村役場産業建設課)

葦原神社がある東部地区は、大鹿村の地芝居発祥の地とされる(写真提供:大鹿村役場産業建設課)

大鹿歌舞伎は明和4(1767)年に上演された記録が残る国選択無形民俗文化財指定の地芝居。江戸から明治にかけては禁令による取り締まりをかいくぐりながら村人たちに受け継がれてきた(写真提供:大鹿村役場産業建設課)

国立劇場や海外での上演実績もある大鹿歌舞伎。演目のレパートリーのうち「六千両後日之文章(ろくせんりょうごじつのぶんしょう)重忠館の段」は大鹿村だけに伝わり、幻の演目とされる(写真提供:大鹿村役場産業建設課)

春の定期公園が行われる大磧神社。村内には神社の境内などにかつて13の舞台があり、いまも7つが現存(写真提供:大鹿村役場産業建設課)

COURSE DATA
塩の里直売所(20 分)→夜泣き松(30分)→居森山断層鞍部(30分)→居森山山頂・中央アルプス展望(20分)→中尾茶屋堂(20分)→道の駅「歌舞伎の里大鹿」

INFORMATION
〈秋葉街道・山塩の道〉
長野県下伊那郡大鹿村鹿塩~大河原
TEL 0265-39-2001(大鹿村役場産業建設課)
http://www.vill.ooshika.nagano.jp/

〈大鹿歌舞伎〉
大磧神社(長野県下伊那郡大鹿村大河原3402)
市場神社(長野県下伊那郡大鹿村鹿塩)
TEL 0265-39-2929(大鹿村観光協会)
http://ooshika-kanko.com/static/spe-kabuki.html


取材・文:島田 浩美

<著者プロフィール>
島田 浩美(Hiromi Shimada)
長野県飯綱町生まれ。信州大学卒業後、2年間の海外放浪生活を経て、長野市の出版社にて編集業とカフェ店長業を兼任。2011年、同僚デザイナーと独立し、同市内に編集兼デザイン事務所および「旅とアート」がテーマの書店「ch.books」をオープン。趣味は山登り、特技はトライアスロン。体力には自信あり。

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