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文明開化を伝える擬洋風建築の代表作 国宝・旧開智学校校舎を知る

2019年9月、旧開智学校校舎が国宝に指定されました。
近代学校建築としては日本初の指定となる擬洋風建築の校舎について紹介します。

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「洋風建築のはじまり」
を伝える擬洋風建築

旧開智学校校舎は1876年に工事がはじまり、翌年に完成。約90年間使われた後、女鳥羽川沿いから現在の場所に移築され、博物館として公開されています。
校舎が建てられた明治初期は、文明開化の真っただ中。西洋文明を盛んに取り込もうという流れは建築にもおよび、洋風のものが求められるようになりました。とはいえ、大工たちは造るどころか、洋風建築を実際に見る機会もほとんどないような状態だったといいます。そこで、都会へ行って情報を集め、これまで培った技術と日本にある材料を駆使して、何とか西洋風を表現しようとしました。こうして、和風と洋風が混ざり合い、結果、どちらともいえない新しいものとして生まれたのが擬洋風建築です。旧開智学校校舎は、日本人がどのように洋風建築を取り入れていったのかをうかがい知ることができる、文化的にも深い意義があると評価されています。

細部に施された和と洋の融合

設計を手がけた地元の大工棟梁・立石清重は、開成学校(東大の前身)をはじめ、東京や横浜などの洋風建築を参考にしたといいます。擬洋風が凝縮されている正面の部分は、龍の彫刻や瑞雲、唐破風、そして瓦屋根という和風の要素と、バルコニーや縦長の窓、天使の彫刻、八角塔など洋風の要素が見てとれます。外観は、実は白い部分だけではなく、下部や四隅の灰色の石積みのように見える部分も実は漆喰塗りです。日本の伝統の技術を用いて、何とか西洋らしく見せようとした努力の跡がうかがえます。

正面を飾る龍や瑞雲、唐破風の意匠

正面の玄関は来賓用で、児童の出入口は向かって右側にありました。校舎内には、廃仏毀釈になった全久院やその隣にあった浄林寺の部材が使われているところもあります。8枚ある「桟唐戸(さんからど)」は、框の中に桟を組み、その間に薄板や連子をはめた扉。浄林寺にあった飛龍の彫刻などがそのまま使われています。扉の木目は、ペンキで一度塗りつぶした上に木目を描く「木目塗り」の技法を施すという手間ひまかけた造りです。回り階段の丸柱は、全久院で使われていたもの。階段はお手本があまりなかったのか、幅が狭くて角度も急なため危なくて、昭和の頃には立ち入り禁止になっていたそうです。
式典やテストのときに使われていたという講堂は、松本の伝統的な竹細工である「みすず細工」の敷物が敷かれています。当時は、テストの様子を県の役人が見学に来ることもあり、来賓が入る場所として、凝ったデザインが施されたのです。

桟唐戸(さんからど)

回り階段

多くの人たちに守られ、
受け継がれてきた校舎

開智学校の児童数は約1000人と、当時の筑摩県(長野県の中信・南信、岐阜県飛騨地方と中津川市の一部)では最も大きな学校でした。建築費も1万1,000円(現在でいうと2億円余り)と高額でしたが、そのうち7割は地域の住民からの寄付によるもの。全国平均30%から35%という就学率が、筑摩県は70%と高く、まさに「教育県」と呼ぶにふさわしい状況でした。 当時は校舎としてお寺などを利用しているところも多く、現在の私たちがイメージするような校舎、教室が並び、廊下で行き来ができるというのはめずらしいもので、近代教育の黎明期の象徴として評価され、万博にも出品されています。しかし、明治20年代に入り、西洋建築をきちんと学んだ日本人の建築家が増えてくると擬洋風建築は下火になっていき、30年代になると、正面玄関の龍や天使は外され、シンプルなものになりました。それでも校舎は使われ続け、明治時代の後半になると、保存のため卒業生からの寄付も集まりました。それは、機能面で優れていたことに加え、長く大事に使い続けることに意味があるという価値観が、関係者の間で共有されていたからだといわれています。
1961年3月に重要文化財に指定された後、2年間はそのまま使用され、翌年にかけて現在地に移築。その際に、建てられた当時の状態に近づけようと、30年代に外されてしまった正面玄関の龍や天使も復元されました。
県内には、旧中込学校(佐久市)や旧格致学校校舎(坂城町)などの擬洋風建築が残っています。その建築技術だけではなく、当時の人々の思いも感じながら、巡ってみるのもいいかもしれません。

歴史を物語る国宝・旧開智学校を訪れてみませんか

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