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真の真田ファンは地蔵峠を超える。二つの“真田の里”を巡る旅。

戦国時代のヒーロー真田氏は、真田町(現上田市)→上田市→長野市松代と拠点を変えた武家。
峠を挟んで隣同士のふたつの真田の里を訪れてこそ真田家を知ることになるのです。

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真田氏巡りは真田の庄からスタート

真田氏本城は曲輪の脇まで車で行くことができる

真田氏を知るためにまず訪れたいのは上田市真田町の「本城」と呼ばれている山城跡。山城といっても車で城郭の脇まで行けるので歩いて山を登る必要はありません。ここは〝真田氏探訪〟の起点とするにふさわしい山城で、真田氏が真田の庄と呼ばれるこの地で力を蓄えた時代の中心的な拠点と推定されています。城跡から北方に見えるひときわ目立つ高い山が四阿山(あずまやさん)で、真田氏は代々この山を信仰の対象にしていました。そして眼下には「真田氏館跡」と呼ばれ、真田氏の屋敷があったと伝えられる遺構が見えます。南西方向に見える山並みは砥石城。無敵ともいわれた武田信玄を村上氏が敗走させた名城で、真田幸隆が攻略し、その後、昌幸も上田城を築くまで重要拠点としました。
真田氏発祥の地・真田町は、さほど広い地域ではありませんが、真田氏館跡に隣接する真田氏歴史館、信綱寺、長谷寺、山家神社など、古くからの真田氏ゆかりの見所が詰まっています。

徳川軍を二度にわたり敗走させた上田城

東虎口櫓門は1994年に復元された

真田から上田駅方面に20分ほど下った場所に上田城は位置します。この城は、勢力を広げた真田昌幸が天正11(1583)年に築いたもので、ここを訪れずして真田氏は語れません。ここで真田氏は徳川軍の大勢力を二度迎え撃ち、その両方とも敗走させて天下に名をとどろかせました。現在は公園として整備され、本丸跡をぐるりと囲む堀と土塁、復元された三基の櫓や櫓門が象徴的です。二の丸跡に建つ市立博物館では、真田氏や歴代上田藩主の資料を展示。ぜひ見学したいところです。城の南側はかつて千曲川が流れ、尼ヶ淵と呼ばれていました。現在は芝生の広場になっていて、ここから櫓と石垣が一望でき、城の構造がよく理解できます(記事内上部のメイン写真参照)。上田城下は城下町としての機能を備えた当時の町割りがよく残っていて、買い物を兼ねて探索してみるとたくさんの興味深い発見があるでしょう。
さて、関ヶ原の戦いで西軍についた真田昌幸と次男信繁(幸村)は、その前哨戦である第二次上田合戦で見事徳川秀忠軍に勝利したものの、最終的には東軍が勝利し、和歌山に流されてしまいます。
一方、東軍についた長男信之は上田藩主となりますが、その後、幕府の命によって長野市松代に移されることとなりました。

真田氏が最後に治めた地で、真田一族の全貌に触れる

現在、上田から松代へは国道18号線で行くのが一般的ですが、真田の庄から松代まで、地蔵峠を経由しても車でわずか30分足らず。当時は、地蔵峠も主要な経路で松代街道とも呼ばれました。川中島合戦に真田氏が参戦したときも、地蔵峠を頻繁に行き来していたのです。
元和8(1622)年に松代に移った真田氏は、以降約250年にわたって松代藩を治めました。したがって代々伝えられてきた真田氏の資料のほとんどは松代に残ることになり、その多くを真田宝物館で見ることができます。さらに真田氏による安定的な統治が長かっただけに、松代にはたくさんの真田ゆかりのスポットが残されています。松代城は川中島合戦当時に武田信玄が重要拠点とした城で、当時は海津城と呼ばれていました。上田城と同じように千曲川を一方の防御に利用しつつ、その反対側に城下町が広がる構造です。松代城に駐車して、歩いていける距離に真田宝物館、真田邸、文武学校などがあり往時の雰囲気を感じながら散策しやすい町並みです。

松代城は桜の名所でもあり、春にはたくさんの花見客でにぎわう

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