特集『天空の美食』④|創業68年、一度は泊まりたい憧れの山小屋北八ヶ岳・黒百合ヒュッテの「ビーフシチュー」と「マフィンセット」

北八ヶ岳の苔の森に佇む「黒百合ヒュッテ」。天狗岳登山や八ヶ岳縦走の拠点として利用されることが多いが、近年ランチや喫茶メニューにも注目が集まっている。なかでも人気が高いのがビーフシチューとマフィン。北八ヶ岳の絶品グルメをめざし、小屋へ向かった。

シラビソの森に囲まれ、クロユリが群生する楽園

唐沢鉱泉から黒百合ヒュッテまでは、苔むした森の中をゆく

針葉樹の森のなかに建つ黒百合ヒュッテ

小屋の外観。入り口の横には「カフェ チョコレートリリー」の看板が

唐沢鉱泉から黒百合ヒュッテまでは、苔むした森の中をゆく

針葉樹の森のなかに建つ黒百合ヒュッテ

小屋の外観。入り口の横には「カフェ チョコレートリリー」の看板が

唐沢鉱泉から約2時間。北八ヶ岳ならではの美しい苔の森を抜けた先に、黒百合平がある。
シラビソの森に囲まれた、楽園のような場所だ。例年6月末~7月頭にクロユリの花が群生して咲くことが、地名の由来となっている。

黒百合平に建つ山小屋、「黒百合ヒュッテ」のランチと喫茶メニューが、登山者の間で話題となっている。とくにランチのビーフシチューが美味しいと評判だ。今日は、私もこのビーフシチューをめざして黒百合ヒュッテまで登ってきた。
ちょうどお昼どきで、小屋はすでにお昼を食べている登山者で賑わっていた。私もお腹がペコペコだ。さっそくお目当てのビーフシチューを注文した。

多いときは一日200食! 看板メニューのビーフシチュー

お皿の底からヒュッテの素敵なイラスト画が出てくる

角切りビーフと野菜がゴロゴロ。セットを頼むとパンまたはライス、サラダが付く

お皿の底からヒュッテの素敵なイラスト画が出てくる

角切りビーフと野菜がゴロゴロ。セットを頼むとパンまたはライス、サラダが付く

「お待たせしました!」
運ばれてきたビーフシチューからは、デミグラスソースの良い香りが立ち昇る。空腹を刺激され、たまらず口に入れた。
濃厚な味わいで、じっくりと煮込まれた肉が舌の上でホロホロと崩れていく。その美味しさは、ここが山小屋であることが信じられないほど。ボリュームもあり、完食するころにはお腹がいっぱいになった。

食後に小屋の前で休んでいると、大量の荷物を積み上げた背負子を担いだ男性が上がってきた。黒百合ヒュッテのオーナー、米川岳樹さんだ。
「お疲れさまです。すごい荷物ですね」と、思わず声を掛けた。
「週末営業に備えて、ビーフシチューのつけ合わせのパンや、マフィンなどは、歩荷で上げているんですよ。ヘリコプターでの荷上げは月1回ですから」
一見、少し強面に見える岳樹さんだが、お話を始めると目が優しく笑い、柔らかい印象に一変した。

「ビーフシチューは多い日で150~200食くらい出るんです」と岳樹さん。
ビーフシチューの人気の火付け役はSNS。登山者によってその美味しさが発信されるや否や、あっという間に有名になり、看板メニューとなったそうだ。

借金返済のために見直したランチと喫茶メニュー

手書きのメニュー看板。調理時間20分の骨付きチキンカレーも気になる

「コケモモマフィン」。コケモモのソースが添えられている

手書きのメニュー看板。調理時間20分の骨付きチキンカレーも気になる

「コケモモマフィン」。コケモモのソースが添えられている

もともと黒百合ヒュッテでは、ランチ営業にまったく力を入れていなかったという。
「親父の代のころは、うどんやそば、カレーのようなメニューしかなかった。ヤル気もなくて、メニューの札を裏返したりしていましたね(笑)」

そんな状況が変わるきっかけが起きたのは、岳樹さんが30歳で小屋を継いだころのことだった。当時、山のし尿問題が大きな社会問題となり、八ヶ岳の山小屋も一斉にトイレ問題に取り組むことになった。国や県の補助もあったが、トイレを改修したことで、大きな借金を抱えてしまったのだ。

「融資してくれた銀行の方に『このままの経営だと小屋を手放すことになるよ』と言われてしまいました」と岳樹さん。
銀行の担当者から「ランチ営業をもっとアピールしなさい」と言われ、小屋の前に昼食メニューの看板を出すと、注文する人が増えてきた。時代の変化なのか、行動食よりも山小屋で美味しい食事を食べる登山者も次第に増えていったという。
「昔は、山小屋には美味しいものがなかった。それで、少しでも美味しいものを食べてほしいという想いから、ビーフシチューの提供を始めました。こんなに有名になるとは思いませんでしたけど」

黒百合ヒュッテには、もうひとつ看板メニューがある。岳樹さんの奥様である貴子さんが焼いている、手作りマフィンだ。味はコケモモとショコラの2種類。
温めて出されるマフィンは、サックリとした歯ざわり。甘さ控えめで、小麦粉の風味が引き立ち、ドリップコーヒーとの相性は抜群だ。クランベリーのコンポートがたっぷりと入っているのがうれしい。添えられたクランベリーソースをかけると、しっとりとした食感になり食べやすかった。

登山者と歩み続けて68年

6~10月の間、月1回行われる音楽コンサート(写真提供:黒百合ヒュッテ)

食事の準備は小屋スタッフ全員で行なうという(写真提供:黒百合ヒュッテ)

さまざまな登山者が訪れる黒百合ヒュッテ

6~10月の間、月1回行われる音楽コンサート(写真提供:黒百合ヒュッテ)

食事の準備は小屋スタッフ全員で行なうという(写真提供:黒百合ヒュッテ)

さまざまな登山者が訪れる黒百合ヒュッテ

黒百合ヒュッテは、1956年に、岳樹さんのお祖母さん、米川つねのさんが始めた山小屋だ。
林業に従事していたお祖父さんが黒百合平を気に入り、「いつかここに山小屋を建てたい」と夢見ていたが、果たせずに亡くなられたという。その遺志を継いで、つねのさんが黒百合ヒュッテを創業した。

「4人の子持ちで未亡人。林業で羽振りの良かった祖父は、いろいろな人の借金の保証人になっていたけど、借主に逃げられて、莫大な借金を抱えることになった。そんな状況で山小屋を始めようと思った祖母は、ちょっと普通の人ではないと思います」と、岳樹さんは不思議がる。
つねのさんは10年ほどヒュッテを経営した後、小屋で倒れ、町まで運ばれて亡くなったという。本当に最後までこの小屋を愛した人だったようだ。

岳樹さんのお父さん、正利さんが二代目となり、始まったのが音楽コンサートだった。
「父は音楽が好きな人で、クラシック音楽を流す北穂高小屋さんへの憧れがあったみたいです。それでフルートのコンサートを開催したのが始まりでした」
なんと黒百合ヒュッテにはピアノが置かれているが、これも音楽好きの正利さんが、50年以上前にヘリで上げたものだという。

岳樹さんの代になってからは、6月から10月まで毎月1回、コンサートを開催している。ピアノソロ、南米の民族音楽、ジャズ、フルートとギターなど、さまざまなジャンルのアーティストが黒百合の夜を盛り上げる。

ちなみに宿泊客に提供される夕食は、ハンバーグと、野菜を使った副菜、ご飯と味噌汁。
「食事は、素材にこだわっています。実家の無農薬野菜を使い、できるだけ地産地消を心がけています」と岳樹さん。味噌は自家製、お米は岳樹さんの同級生が営む農家から仕入れているという。
「これまで山小屋で食べたお米のなかでいちばん美味しいと言ってくださったお客様もいました」と、岳樹さんは嬉しそうに話す。

“いつ来ても快適に過ごせる山小屋”をめざして

地元の木工作家さんが黒百合ヒュッテのために手作りしている木製カップ

改装により畳からフローリングへ。柱や階段は創建当時のものを残した

客室は2階。改装で断熱性が上がり、冬でも暖かく寝られるように

Tシャツやてぬぐい、バンダナなどのグッズも登山者に大人気

地元の木工作家さんが黒百合ヒュッテのために手作りしている木製カップ

改装により畳からフローリングへ。柱や階段は創建当時のものを残した

客室は2階。改装で断熱性が上がり、冬でも暖かく寝られるように

Tシャツやてぬぐい、バンダナなどのグッズも登山者に大人気

さまざまな出来事を経て、今に至る黒百合ヒュッテ。小屋を中心に生きてきた米川さんファミリーの歴史が詰まっていることが感じられ、黒百合ヒュッテが多くの登山客に愛される理由がわかる気がした。

2021年~23年にかけて、黒百合ヒュッテは建物の改装工事を行なった。
「小屋の改装は長年の念願でした。本当は、私が小屋を継いだときにやりたかったんです。トイレの改修で抱えた借金をようやく返し終えて、小屋全体の改装に取り掛かることができました」
通年営業の黒百合ヒュッテ。工事は、小屋の営業を続けながら行なった。作業は夏季シーズンしかできないため、小屋を3分割して1年ずつ進めた。
昨年12月に工事が完了した新しい建物は、壁に分厚い断熱材が入り、窓枠を木からサッシに変えるなどして、断熱性が格段にアップ。外気がマイナス25度くらいにもなる冬でも、暖かく過ごせるようになったという。
「ハード面は整ったので、ここからはソフト面の充実ですね。いかに快適にしていくか、です」

オーナーの米川岳樹さん(左)と、奥様の貴子さん(右)

「山小屋の運営は“空間づくり”だと私は思っています」と岳樹さん。
森林限界に近い場所に位置する黒百合ヒュッテ。小屋から下は樹林帯で苔の森が楽しめるが、小屋よりも上に行くと視界が開けてアルペン的な景色になる。登山口から2時間で来られて、手ごろに様々な景色が楽しめるのは最大の魅力だろう。
「お客さんには、自然に囲まれたこの空間で、自分の好きなように、ただ自由に過ごしてもらいたい。こちらから何かを提案するつもりはないんです。そのために、いつ来ても心地よく過ごせる、そんな小屋にしていきたいです」

もうすぐ創業70年を迎える黒百合ヒュッテ。これからどんな山小屋になっていくのか楽しみだ。季節を変えて何度でも訪れたい、そんな山小屋である。
Profile

米川岳樹/Takeki Yonekawa

長野県茅野市出身

北八ヶ岳「黒百合ヒュッテ」オーナー

幼いときから家業である山小屋の雰囲気に親しむ。卒業後すぐに23歳で小屋に入り、30歳で父の米川正利氏から小屋を引き継ぐ。父親の代で形作られた小屋を、さらに発展させる形で、ランチ営業や、ピアノコンサートなどのイベントを拡充。2021~2023年にかけては小屋の全面改修を実施した。現在は、妻の貴子さんと二人三脚で小屋を運営している。なお、北八ヶ岳の双子池ヒュッテを運営するのは、弟の友基さん・佳子さんご夫婦。

●天狗岳(2646m/西天狗岳)
東天狗岳・西天狗岳からなる双耳峰で、山頂は360度の大展望。黒百合平との間にある「天狗ノ奥庭」は地上の楽園だ。唐沢鉱泉から天狗岳を通って黒百合平へ行くこともできるが、4時間超のコースで山頂付近はガレ場が続く。岩場歩きに慣れていない人は、黒百合ヒュッテを拠点に山頂往復がおすすめ。

東天狗岳の山頂付近からの眺望。アルペンムードあふれる岩場が続くが、眼下に苔の森が広がっているのがおもしろい。右下に「天狗ノ奥庭」が見える

Information

黒百合ヒュッテ

https://www.kuroyurihyutte.com/

・営業期間:通年営業

・標高:2400m

・アクセス:唐沢鉱泉から約2時間。渋ノ湯から約2時間30分。麦草峠から約2時間40分。

 

撮影・文:横尾絢子

 

<著者プロフィール>

 

横尾 絢子(Ayako Yokoo)


編集者・ライター。気象予報士。高校時代より登山に親しむ。気象会社、新聞社の子会社を経て、出版社の山と溪谷社で月刊誌『山と溪谷』の編集に携わる。2020年、東京都から長野県佐久市に移住したのを機に独立。六花編集室代表。現在はフリーランスとして、主にアウトドア系の雑誌や書籍の編集・執筆活動を行なう。プライベートではテレマークスキーやSKIMO(山岳スキー競技)を中心に、季節を問わず山を楽しんでいる。日本山岳・スポーツクライミング協会SKIMO委員。