ここへ来て、日本酒が気になる
振り返れば若い頃は、もったいない酒の飲み方をしてきたと思う。ゆっくりと酒を味わうことなく、ただ日頃の憂さを晴らし、騒ぎ散らすために酒を飲む。そんな風にばかり酒を飲んでいた自分が、今となっては恥ずかしい。消したい過去もたくさんある。今改めて、大変失礼なことをしたと、酒に謝りたいくらいだ。その反動からか、歳を重ねてからは、酒から遠ざかっていた。若い頃に充分飲んだし、そんな風に騒ぎ散らすことが恥ずかしい年齢になってきたからだ。
しかし、長野に移住してきてから、俄然、日本酒が気になり始めた。全国でも二番目だというほど、長野県には酒蔵がとても多い。スーパーにたくさんの銘柄が並んでいることにも、カルチャーショックを受けた。普通のスーパーに、こんなに大きな日本酒コーナーが設けられているなんて!(ちなみに、きのこコーナーの大きさとその多様な種類にも同様に驚かされた。)それだけ、長野にいると日本酒がとても身近なのだ。
少しずつ、気になる銘柄を試すようになり、お気に入りのものも増えた。しかし、その奥深い世界の深淵は底知れない。まだ「日本酒が好き」と、公然と口に出すのも憚られる。ただ私は、日本酒が好きではあるけれど、日本酒知識人のように蘊蓄を蓄えたいわけではない。好きな酒と、もっと出会ってみたいだけなのだ。スーパーでは誰かに質問することもできないし、酒蔵に行くのは少し敷居が高い気もする。もっと気軽に日本酒と出会える場所はないだろうか。
そのように悶々としていた頃、私は運命的な出会いを果たしてしまった。角打ち。角打ち? 私はその時、看板のその文字を二度見した。ここにあった。私が求めていたものは。商店街の中ほどで、私はひとり、心の中で小躍りをせざるを得なかったのだった。
熱狂の夜に見つけた まちかどの角打ち『十三くら』
中山道の江戸から22番目の宿場、佐久市にある岩村田。左右にアーケードの屋根がある岩村田商店街は、少しレトロな雰囲気が心地よくて、個人的にもよく訪れる場所だ。その日は祇園祭で、どこからともなく大勢の人たちが商店街に集まり、歩行者天国になった車道で神輿が暴れていた。人々に混じってその夏の熱狂に酔いしれていた時、ふと見慣れない店を見つけた。それが角打ちの店、『十三くら』だった。
角打ちという言葉には、日本酒に詳しそうな年配の男性がいく場所という、すごく個人的な偏見を持っていた。しかし、その時の店内には30〜40代くらいの女性達が所狭しとカウンターや陳列棚の前に立っていた。その景色に、私は釘付けになった。なんだ、ここは!すぐさま店内に入りたかったのだが、未成年を連れて祭りに来ていたので、泣く泣くその日は諦めた。
祭りの熱は冷めたが、角打ちへの思いは日に日に熱くなる。幾度となくあの店を思い出しては、いつ行こうかと計画をしていた。営業日や営業時間もSNSでチェックしまくった。そしてついに、機は熟した。祭りからひと月以上過ぎた頃、満を持して店に再訪したのだ。
平日。学生達が帰路に着き始めるその頃、いつもは車で通る道を歩く。祭りの時とは違い、のんびりとした空気が漂う商店街。すぐに見えてきた看板に、顔が緩む。ガラスのドア越しに店内を覗くと、入り口に並べられたたくさんの一升瓶に西日が輝いている。美しい。日本酒が好きなのは、そもそも瓶が好きだからなのかもしれない。
「いらっしゃいませ。」
笑顔で迎え入れられ、挨拶を交わす。そのオープンな雰囲気に、確信する。ここは、居心地が良い店に違いない。奥には、たくさん並ぶ日本酒たちとカウンター。私は抑えきれないわくわくと、角打ちデビューを果たす誇らしい気持ちと共に、中へと足を踏み入れた。
酒のまちで、お気に入りの一杯に出会う
何を隠そう、佐久エリアは13もの酒蔵を擁する酒のまちである。その全ての酒蔵のメイン銘柄を揃えているのが『十三くら』だ。つまり、佐久の日本酒入門にもってこいの店ということだ。営業時間は15時半から18時半と夕方3時間ほど。飲み会前の待ち合わせや0次会、仕事終わりに一杯といった使い方にちょうど良い。居酒屋とは違い、早い時間に気軽にさくっと飲めるのも、私好みだ。明るいうちから飲む酒ほど、うまいものはない。
角打ちが初めての私。まず始めにシステムを教えてもらうことにした。
そもそも角打ちとは、酒屋の店内で酒を飲むことや、そのように酒を飲むことができる店のことを指す。多くは立ち飲みスタイルで、『十三くら』もそれを踏襲している。陳列棚や冷蔵庫にある商品を購入し、カウンターで立ち飲みする。飲食店とは違うので、基本的には全てセルフサービスだ。もちろん酒屋として、購入のみでも利用できる。
立ち飲みをするには、最初におちょこを購入する。お試しのレンタルおちょこもあるので、初めての人にも安心だ。早速おちょこを片手に持つ。が、冷蔵庫を前に何を頼もうか、迷ってしまう。せっかくだから、新しいお気に入りを見つけたい。
「日本酒ビギナーなんですけど、何かおすすめってありますか?」
勇気を出して店員さんに質問すると、にっこりとした笑顔でこちらを振り向く。そして、普段どんなものを飲みますか?とすぐさま聞かれる。うれしい。こういう会話を私は求めていたのだ。
よく買うお気に入りの酒蔵や銘柄を告げると、なるほど……ではこちらがいいかもしれません!と彼女はいくつかの銘柄を示してくれた。それぞれの特徴や味の方向性を、軽やかに話してくれる。すごい。かっこいい。聞けば、旅行に行った先々で、酒蔵巡りをしているのだという。なんて楽しそうな旅なのだろう。彼女に全てを委ね、では、それで、とおすすめされたものをいただくことにした。
冷蔵庫から出してもらった、初めて飲む銘柄の酒。一口飲むと、柔らかなその香りがふんわりと鼻に抜けていく。おいしい。まだ見ぬ酒をまた一つ、知ることができた喜びが溢れる。好みにぴったりだと彼女に告げると、実は佐久には女性的なお酒が多いんですよ、と言う。私の好みは、芳醇とか、まろやかとか、そういう表し方をされるもの。(これも、彼女に教えてもらった。)佐久にはきっとまだまだ好きな酒があるのだろうと思うと、もっといろんな銘柄を飲んでみたいし、日本酒に関するいろんなことを知りたい気持ちになった。
その時、ああ、と納得した。別に蘊蓄を垂れたいわけではない。けれど、こうやって好きなものを探しているうちに、知識がどんどんと自分の中に積み重なり、気づけば日本酒の深みにはまっていくのだろう。こういう、おいしい、とか、楽しい、とか、知りたいという動機になる純粋な体験がここには溢れている。私の中の角打ちに対するイメージも、この頃にはすっかりと変わっていたのだった。
人と、酒に、出会う場所
おつまみも追加で購入し、おちょこを片手にカウンター越しの会話を楽しむ。気張らずに、リラックスできる店の雰囲気に、ついつい喋りすぎてしまった。しかしこれも、一人で店に行くことの醍醐味だろう。
「ここへ来た人が、いろんな店を教えてくれるんですよ。」
店員さんも、人懐っこく笑う。この辺りの地元民がよく行く店はどこか、あそこのあれは絶品だった、あれは自分好みではなかった、インターネットには載っていないそういう情報交換ができるのは、酒場ならではだ。
どんどんと話が発展して、なぜか最終的には隣町の動物園には何の動物がいたか、の話になった。二人ともうろ覚えだったので、獰猛なやつがいたような気がするが、それが何かどうしても確信が持てない。虎じゃない?いや、ライオンじゃない?虎の方が強そうじゃない?いや、百獣の王はライオンでしょう。そんな堂々巡りの会話に、久しぶりに大笑いした。
気づけば西日はだいぶ傾き、空が赤くなり始めている。カウンターからは、帰路に着く人々が歩いている様子がよく見える。宿場町だったこの場所では、当時も同じように人が行き交っていた。そして彼らもきっと、同じように酒や一期一会を楽しんでいたのだろう。そう思うと、おちょこに揺れるこの透明な液体は、どうしても特別なもののように思える。日本酒は、歴史・文化・風土・伝統が全て詰まった作品なのだ。
「また来ます。」
そう告げて店を後にし、夕暮れのまちへ歩き出す。電車がちょうど来たのだろう、駅の方からは学生たちが歩いてくる。彼らが勉学に励んでいる間に酒を飲んでいた自分に対して、少しばかりの罪悪感を抱かなくもなかったが、それもまた、大人になるということなのだ。そう自分に言い聞かせ、酒臭さに気づかれぬよう息を止めながら、でも胸を張ってすれ違うのだった。
取材・撮影・文:櫻井 麻美
『十三くら』
https://www.instagram.com/kakuuchi_13kura
<著者プロフィール>
櫻井 麻美(Asami Sakurai)
ライター、ヨガ講師、たまにイラストレーター
世界一周したのちに日本各地の農家を渡り歩いた経験から、旅をするように人生を生きることをめざす。2019年に東京から長野に移住。「あそび」と「しごと」をまぜ合わせながら、日々を過ごす。
https://www.instagram.com/tabisuru_keshiki
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