祖父母との思い出の地「山田温泉」。由緒正しき「山田館」に泊まる
“定宿”について考えた時、雪降る中、祖父の車に揺られている情景が思い浮かんだ。おぼろげな記憶だったため母に尋ねると、祖父母とともに毎年年末年始に通っていた温泉宿があり、その道中じゃないかとのこと。日々の忙しなさから足が遠のいたものの、思い出を語る母はあまりにも楽しそうで、“定宿”探しの手始めに、残照の地を訪ねることにした。目的地は高山村の「山田温泉」にある「山田館」だ。
「山田温泉」は、高山村にある8つの温泉地の一つで「元湯」と「わなばの湯」の2つの源泉を引湯する。無色透明な含硫黄‐ナトリウム・カルシウム‐塩化物温泉で、効能は神経痛や筋肉痛、関節痛など。戦国武将の福島正則が「元湯」を発見し、場所を移して江戸時代中ごろの1798年(寛政10年)に開湯したと伝わる。
小林一茶や森鴎外、菊池寛、与謝野晶子など数多くの文人に愛されてきた温泉地。そのシンボルである「大湯」のすぐそばに佇む「山田館」は、開業220年余の老舗旅館だ。「山田温泉」の代表的な商号を名乗り、幕末には名主(村の長)を勤めた由緒がある。
長野市の自宅から「山田館」までは1時間とかからない。果樹栽培が盛んな須坂市の「北信濃くだもの街道」を通って高山村に入り「信州高山あじさいロード」を経由する。山田温泉に至る約2.5kmには7月ごろ、およそ370株のアジサイが花咲くそうだ。2月上旬のこの日、暖冬の影響か道路にほとんど雪はなかった。松川渓谷に架かる真っ赤な「高井橋」を渡り「湯つづき紅葉ロード」をほどなく進んで宿へ。
「今でも鮮明に思い出すロビー」の話を母から聞いていたにも関わらず、のれんをくぐると、つい感嘆の声が漏れた。吹き抜けの天井から吊り下がるまんまるの和紙照明の数々、ロビー中央から続く階段。お香の匂いが鼻を抜ける。ただ、“老舗温泉宿”の歓迎の中に格式高さはあっても緊張はない。「ようこそ、おいでくださいました」とにこやかな仲居さんから、ウェルカムドリンクとしてお抹茶を頂戴し、さらに呼吸を深めた。
湯の花が舞う無色透明な湯。松川渓谷の四季を望む、露天風呂と大浴場
1階に男女入れ替え制の露天風呂が、地下1階に男女それぞれの大浴場がある。いずれも源泉かけ流しで、無色透明な湯の中で“湯の花”(温泉に含まれる成分が固形化したもの)が舞う。
2007年(平成19年)に造営された露天風呂は、比較的新しい浴場だ。四季折々の渓谷の表情が見られ、冬の雪見温泉はひときわ美しい。屋根付きのため天候を気にする必要がなく、露天で十二分に景色を堪能した後、併設する屋内浴槽で体を温め直すことができるのも嬉しい。
大浴場「金竜窟の湯」。日中は大きな窓から松川渓谷の山肌が望め、無色透明な湯に四季の色が映し出される。チェックインからチェックアウトまで入浴は自由。部屋でまどろんでいた私は真夜中に貸し切り状態の温泉を満喫した。
湯の温度は42℃ほど。ややしっとり目の肌感に癒される。湯の花をすくおうと手を伸ばしたところで思い出した。昔ここで、習い事の成果を披露しようと泳ぎ出し、祖母と母に叱られたことを。湯出口と対峙し、見覚えのある画角に確信する。浴場には硫黄の香りが“むん”と際立ち、もくもくとした湯気が醸す風情が艶っぽい。この場で平泳ぎをしない程度には大人になった。
居心地の良い客間、風土を味わう食
全9室の客室はすべて山側に面し、和室もしくは洋室の本間、そして次の間を内包する。中には源泉かけ流しの半露天風呂とテラスが付いた部屋も。私が宿泊したのは2階の角部屋「朝霧の間」。祖父母はおそらくこの部屋を選んだと思う。
10畳の和室には床の間があり、こたつが出迎える。押入れと姿見がある次の間から漂う安心感。窓辺から見渡す渓谷美さえも、この空間が醸す日常なのだろうか。
昔の我が家は、部屋にこもって卓上ボードゲームで盛り上がっていたと聞く。単身の宿泊はもの寂しいかと思っていたが、そうでもなかった。こたつに入りながら、温泉まんじゅうを食べ、日記をつけ、本を読み、うたた寝をし、滞在中のほとんどを「朝霧の間」で過ごした。時が経っても居心地の良さは変わらないようだ。
朝夕の食事は半個室の「野の花亭」で。「本日担当させていただきます。ごゆっくりお過ごしくださいませ」と仲居さんがあいさつしてくれ、気持ちがほぐれる。「山田館」の料理は土産土法(=その地域で収穫されたものは、その地域伝統の調理法で食べる)を志し、長野県産の食材にこだわる。50年近く当館で腕を振るう料理長の心尽くしをいただく。
夕食の会席料理は、どこか懐かしい味わいの自家製梅酒を食前酒に、ウドの黄味酢和えや鯛・信州サーモン・信州雪鱒(ます)のお造り、イワナの酒塩焼きなどの滋味に加え、この日採れたばかりのフキノトウの天ぷらという献立。グツグツと音を立てる鍋で煮込むのは信州プレミアム牛のしゃぶしゃぶ。地元の沢水で炊き上げた高山村産の米は、ふっくらと粒がたち、噛むほどに甘みを感じる。心中で小躍りしながら、ゆっくりと愉しみ腹十分になった。
翌朝、豆乳の茶碗蒸しや西京漬け、卵焼き、とろろご飯、キノコと厚揚げのみそ汁という純和風の朝食で体をすみずみまで起こした後、エントランスの「月見台」でコーヒーと栗落雁を味わう。カウンター席に座り、一面ガラス張りの窓からカモシカの姿を探した。幼い頃の私は動物=犬と思っていたようで、その姿を見つけては「わんわん」とはしゃいでいたらしい。
“定宿”の存在とは。「山田温泉」の日常に宿る美意識と懐古に思うこと
朝の温泉街に立つと「大湯」に向かう人の声が聞こえてきた。「山田温泉」の源泉である「元湯」は約60℃、「わなばの湯」は80℃ほど。「大湯」はその熱さから特に朝湯として人気が高いという。地元や周辺市町村から毎朝のようにやって来る人が多いそうだ。湯の魅力はさることながら、長野市・須坂市といった町や高速インターチェンジからそう遠くない立地。しかも渓谷の温泉となれば、通い詰める気持ちはとてもよく分かる。これは「山田温泉」が持つ地勢的な魅力の一つでもある。
「山田温泉」には「大湯」の他にもう一箇所、共同浴場がある。地元住民と旅館組合加盟施設の宿泊客のみ利用可能な「滝の湯」だ。写真撮影のためうろうろしていると、居合わせた組合員の方が中に案内してくれた。「素朴でいいでしょ」という言葉に大きく頷く。“侘び寂び”がある温泉街を眺めながら、この地を愛した文人墨客と祖父母の美意識に尊敬の念を抱いた。
「山田館」を後にしてから、祖父母とともに通っていた頃に露天風呂はなかったこと、食事処は半個室ではなく大広間だったことを思い出す。当時から変わった部分もあった。だが、脱衣所にあるかごの一つ一つにアクセサリー入れが置かれていたり、高品質のドライヤーが備わっていたりと随所で感じた心配りや、ほどよい距離感の接客。「素朴親切」なおもてなしは、変わっていないはずだ。
実家にいるかのように過ごした「山田館」での時間の中で、今は亡き祖父母との思い出に触れても感傷的になることはなく、むしろ温かい気持ちになった。幼少期に思いを馳せると今のひねくれ具合とのギャップが愉快で、これも年を取る副産物なのだろうか。“定宿”とは、日常の煩雑から距離を置き、忘れかけていた私を取り戻すためのリセット場所なのかもしれない。
『山田館』
長野県上高井郡高山村山田温泉3604
TEL 026-242-2525
1泊2食付 24,200円〜(2名1室利用時・税込)+入湯税1名150円
https://www.yamadakan.co.jp/
*大湯は2024年3月9日から当面の間、臨時休業
取材・文・撮影:松尾 奈々子
<著者プロフィール>
松尾 奈々子(Nanako Matsuo)
1993年生まれ。長野市出身・在住。
記者・観光地広報担当を経て、現在はフリーライターとして活動中。顔は大福に似ているといわれる。人の話を聞くことが好き。
閲覧に基づくおすすめ記事