いざ、野沢温泉へ
旅行当日。レンタカーを借りて国道117号を走る。向かう先は長野県北部の野沢温泉村。その名の通り、野沢菜発祥の地で至る所から温泉が湧出し、冬は国内有数の規模を誇るスキー場を中心に活気で満ちあふれる。グリーンシーズンの野沢温泉に出掛けるのは初めてだ。
レトロな看板や建物が立ち並ぶ温泉街に入り、石畳の急坂を登ると目的地の『村のホテル 住吉屋』に着いた。創業明治2年。150年続く老舗の温泉宿は、国の天然記念物・麻釜熱湯湧泉=通称・麻釜(おがま)の道向かいに建っている。100度近い熱湯が湧き出る麻釜の辺りには、湯煙が立ち、硫黄の香りが漂う。トップシーズン明けの平日は通りを歩く人の姿もまばらで、のどかな温泉街の情緒が広がっている。
3階建ての宿を見上げると窓が開け放たれていた。麻釜通りに面した本館とその奥には別館がある。客室は合わせて11室。和室・ベッドを備える和洋室・シャワールーム付き・お風呂付きと、それぞれ特徴や趣が異なる。私たちが泊まるのは別館3階の客室だ。本館にある玄関をくぐると、女将さん=8代目の高木美穂さんが出迎えてくれた。階段を上り渡り廊下を通って、別館まで案内してもらう。館内の要所には花が飾られ、壁には漫画や版画が掛けられている。感じの良い美術館を巡っているようで楽しい。
隠れ家のような客室、野沢温泉の生活を眺める客室
客室「朝霧」。入ってすぐのシャワールームには、ステンドグラス風のカラフルな障子が張られていた。入口と本間は廊下でつながり、洗面ルーム(冷蔵庫付き)とトイレ(温水洗浄便座付き)が独立している。さながら自宅に帰ってきたかのような安心感を覚えた。
本間とその奥のベッドルームは、柔らかい白の壁にサワラを使った明るいベージュのフレームが施され、清潔さと温かさが共存する。組子細工の間接照明。窓辺に置かれたアンティーク調の椅子。耳をすませば水の音が聞こえてくる。広々としたクローゼットにベッド下にも収納スペースがある。荷物を解いて紺色の浴衣に着替え、すっかりくつろいでいた。友人は温泉まんじゅう片手に住吉屋オリジナルの温泉街マップを見ている。
今回はベッドとシャワールームのあるタイプを選んだが、他にも気になっている部屋があった。本館3階の「湯の香」。純和室の窓から見える「麻釜」はすぐそこだ。「野沢温泉の台所」と称される麻釜には、日常的に地元の人がやってきて野菜や卵をゆでている。温泉という文化が溶け込んだ生活を間近に感じられるのは魅力的だ。
温泉の時間です。
14時を過ぎた。住吉屋の温泉は10~14時の清掃時間以外、入浴可能だ。二つの浴場は、夕食前に男女で入れ替わる。早めにチェックインしてひと風呂、夕食後か朝にひと風呂、という計画だった。
野沢温泉の湯は熱い。住吉屋の敷地内から湧く源泉は90℃近いという。脱衣所に貼ってある「温泉の入り方」や「お願い」を読み込む。温泉は外気温によって多少温度が変化すること。深夜や早朝は備え付けの湯かき棒で混ぜると良いこと。入浴前は十分にかけ湯をすること。マナーを守ること。
女将さんから「熱いと思ったら無理をしないでかけ湯10杯」と教わっていた。浴室を開けると、正面のステンドグラスが目に入る。先代の女将さんが取り入れた色は住吉屋らしさとして定着。内湯に反射し揺らめく姿に見惚れた。シャワーで身体を流し、かけ湯をして慎重に足を入れる。この日の内湯は44℃ほど。熱湯派の私は半身浴。ぬる湯派の友人はかけ湯10杯の後、静かに歩いていった。湯は無色透明で、目を凝らすと湯の花が舞っている。手ですくうと微かに硫黄の香りがした。ナトリウム・カルシウム硫酸塩泉(弱アルカリ性硫黄泉)で、神経痛・糖尿病・アトピー・創傷・慢性便秘・痛風・美肌美容・リウマチ性疾患などに効能があるという。
浴室の片隅に腰掛けている友人の元へ行く。筒から出ている湯気に顔を当てていたので、真似をした。源泉の湯気を利用したスチームは気持ち良い。浴室を出ると、じわじわと内から熱が込み上げてきた。ロビーで「野沢のおいしいお水」を飲む。幸せだ。
夕食は、会席料理と郷土料理の二本立て
昼寝……たわいない話……。そうこうしているうちに、夕食の時間を迎えた。食事は完全個室。私たちは築100年超の蔵を改装した食事処「蔵座敷」に向かった。三重の扉を抜けて階段を上る。天井の梁が素敵だ。
晩餐の初め。箸付は「とまと吉野豆腐」。トマトを大きな鍋で練って固めたシンプルにして深い甘みを感じる逸品で、思わず顔を見合わせる。アジサイに見立てたジュレの下にクリームチーズが隠れている膳菜。ゴマの目をしたそら豆のカエルが周りを囲んでいる。なんともかわいらしい。
しばらくして、“おいしい音”が聞こえてきた。鉄板に信州プレミアム牛の赤身とサーロイン、ズッキーニ、根曲がり竹がのっている。お肉はかんずり・日本酒が仕込まれた塩を付けていただく。根曲がり竹の他にも旬の食材がふんだんに使われていた。ベーコンと油揚げ、ワラビを大根で巻いた「わらびの局煮(つとに)」。野沢温泉産のコシヒカリと合わせた「わらびご飯」。しっかりアク抜きされたワラビは米の甘みにさっぱりとした風味を添える。こんにゃくが入ったみそ汁、地元特産の野沢菜漬けとともに至福を味わった。ベテランの板前さんが作る会席料理はどれも旨味に満ちていた。
会席料理に加えて郷土料理「取り回し鉢」もテーブルに並ぶ。江戸時代から野沢温泉に伝わるハレの日のおかずだ。大きな鉢に盛られ、各々が小皿に取り分け回していくことから、そう呼ばれる。住吉屋では①いもなます②ごぼう丸煮③塩煮芋(しょうにいも)④カレー芋⑤芋がら煮付け⑥花豆ふっくら煮⑦きくらげ山家煮⑧ぜんまい煮を用意。朝夕2品ずつ供される。ジャガイモを千切りにした「いもなます」を口にする。見た目が大根の酢漬けのようなので、ほんのり甘い味に驚いた。ジャガイモ本来の甘さをだしが引き出しているように思う。素材を生かした住吉屋の味は優しい。
夕食の後、夜の温泉街を散歩することにした。クラフトビールを飲みに行って、誰もいない通りをゆっくり歩く。麻釜から立つ湯煙は昼間より色濃く、硫黄の香りも強くなったような気がする。自然と無口になった私たちはしばらく麻釜の側に佇んでいた。健やかになった身体が眠気を訴えてきた頃、名残惜しさを感じつつも宿に戻る。私はもう一度温泉へ、友人は部屋でシャワーを浴びて、ベッドに横になった。真っ暗だと眠れないというので、間接照明の明かりを調節する。ふすまに描かれた桜の花びらが銀色に光って綺麗だ。
温泉旅行の終わりに
朝。熟睡したためかパッと目が覚めた。朝風呂に入り身体を温め、朝食に向かう。ご飯、みそ汁、野沢菜のたまり漬けに梅干し、しょうゆ豆にナメタケ、炭火で焼いた鮭、自家製の豆腐、麻釜でゆでられた温泉卵、取り回し鉢2品が準備されていた。これ以上ない特別さが身体に染み渡る。
チェックアウトは11時。思う存分くつろいだからか、寂しさはなかった。老舗旅館が持つ品と信頼。そして快適さ。住吉屋の空間も料理も、すべてが心地よかった。
住吉屋を後にしてから、宿泊代を払っていないことに気づく。戻ろうとすると「早いけど、誕生日おめでとう。節目だね」と友人が言った。気の置けない時間を過ごした久しぶりの温泉旅行は、最高のプレゼントになった。もし、お互いのライフステージが変わったとしても、またこの場所で会いたい。そう思った。
『村のホテル 住吉屋』
長野県下高井郡野沢温泉村豊郷8713
TEL 0269-85-2005
https://sumiyosiya.co.jp/
取材構成・文・撮影:松尾 奈々子
<著者プロフィール>
松尾 奈々子(Nanako Matsuo)
1993年生まれ。長野市出身・在住。
記者・観光地広報担当を経て、現在はフリーライターとして活動中。果物店の娘。大好物はイチゴ。顔は大福に似ているといわれる。人の話を聞くことが好き。
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